前回の関ケ原の戦いが、どう描かれるのかとても楽しみにしていたのですが
あまりの展開の早さに、足元をすくわれましたね(笑)



合戦シーンなどは、まったくないという驚きの展開でした。



ま、致し方ないのかなという感じもしないわけではないですね。
主人公の真田信繁自身の目線からみた映像を丹念に描くと
脚本家の三谷幸喜さんは、当初からそうはっきりと



おっしゃっていたので、確かに関ケ原の戦いの本戦には
真田家の人間は、参戦していないので、大河ドラマで描かれたように
佐助の報告に、唖然(あぜん)とする描き方は、正解ではあります。




ただ、やはり戦国武将好きの私からしたら、関ケ原の戦いも
もう少し丁寧に描いてほしかったという気持ちがありますけども
制作サイドから、したら無駄なシーンを省くというのは、当然の結果
だと思います。




ただ、『治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城』と唄われた、鬼左近こと島左近【島清興(しまきよおき)】が大活躍するシーンは
観たかったな~。



さて、本題から少しずれましたが、その関ケ原の戦いの勝敗がわずか1日の戦いで決したことにより、真田家の運命も大きく揺さぶられるわけですが、
とくに、徳川家康についで大勢力でもあった毛利家。


この毛利家の運命も大きく変えることになります。



豊臣政権の5大老の一人でもあった毛利輝元
毛利輝元は、合戦には参加していなかったものの、大坂城に入城し西軍側の
総大将になっているわけですから、敗者となった今、当然、過酷な運命が


待ち受けているはずですよね。



実際、関ケ原前は、120万石の大大名であった毛利家は、わずか周防・長門2か国の37万石にまで、減封と大きく領地を失うことになりました。



本来であれば、すべての領地を召し上げられていてもおかしくなかったのですが、一人の救世主によって救われたのでした。
その人物とは、吉川広家なる人物です。



今回はこの吉川広家についてシェアできたらと思います。



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【戦国一の知将といわれた毛利元就には、9人もの男子がいた!?】


吉川広家について語る前に、まず、知っていただきたいのが
毛利家の創業者ともいえる毛利元就公です。



安芸の小豪族に過ぎなかった毛利家を中国地方の11か国を支配する大大名にまで、のし上がった稀代(きだい)の梟雄(きょうゆう)です。



そして毛利元就と言えばあの逸話が有名ですよね。



みなさん、ご存じだとは思いますが【三本の矢】の逸話です。

え!まさか!知らないというかたがいたとは!?



そんなこともあろうかとこちらの動画をご覧くださいね。
👇
毛利元就が3人の息子たちに語る『三本の矢』




さてさて、最近では、安倍総理が打ち出したアベノミクスの三本の矢にも
採用されるほど、人々に印象づけた逸話を残した、毛利元就



この【三本の矢】の逸話のおかげで
毛利元就には、3人の息子しかいないと思ってますよね。



じつは、元就には、9人もの男子がいたのです。



よくテレビで放映されている大家族みたいですね(笑)



時は戦国時代なので、たくさん子供がいたほうが有利な戦略がとれるので、
例えば、他家に養子に放りこんで、乗っ取るとか……。



正室だけではなく、側室も持てた時代なので、子だくさんであれば
あるほど、有利なわけです。



とりあえず、下記に列挙しますね。

★毛利元就    享年75歳
[1497~1571]

長男・毛利隆元(もうりたかもと) 享年41歳
   [1523~1563]

次男・吉川元春(きっかわもとはる) 享年57歳
   [1530~1586]

三男・小早川隆景(こばやかわたかかげ) 享年65歳
   [1533~1597]

四男・穗井田元清(ほいだもときよ) 享年47歳
   [1551~1597]

五男・毛利元秋(もうりもとあき) 享年34歳
   [1552~1585]

六男・出羽元倶(いずはもととも) 享年17歳
   [1555~1571]

七男・天野元政(あまのもとまさ) 享年51歳
   [1559~1609]

八男・末次元康(すえつぐもとやす) 享年42歳
   [1560~1601]

九男・毛利秀包(もうりひでかね) 享年35歳
   [1567~1601]


逸話の関係で三男の小早川隆景までは、有名ですが、4男以降の元就の息子たちはあまり知られていないと思います。次男・三男の苗字が、吉川や小早川に代わっているように、それぞれ他家に養子に出されて名前が



代わっているので、なおさら認識しづらいですが、それだけ元就が血脈を利用して勢力を拡大していったことが、よくわかりますね。



これだけの男子がいたのですが、父親の元就は、正室の妙玖(みょうきゅう)が生んだ男子、隆元・元春・隆景とこの三人は可愛がったみたいですが



4男以降は、側室たちの子供なので、あきらかに対応が違っていて
『もし、四男以降で、立派な人物がいれば、引き立ててやってほしい』
隆元・元春・隆景の三人に依頼しています。



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【毛利両川といわれた元春・隆景亡きのちは?】


毛利元就が、さすがに期待しただけあって隆元・元春・隆景のこの3兄弟は
性格は違えど、優秀な跡取りでした。



しかし、期待していた長男の毛利隆元は、元就が67歳のときに急死してしまいます。隆元は、武将としては今一つといわれたりしていますが、穏やかな性格で他人に対しても思いやりが深く、長男としての役目を十分にまっとうしていて、



元就もかなり目をかけていたので、たいへんなショックだったと思います。
死因は、食中毒や毒殺とも言われていて、よくわかりませんが、元就にとってはとても悲しい出来事だったと思われます。


そして、隆元の嫡男の輝元が後を継ぐわけですが、まだこのときわずかに11歳。



毛利元就は、隠居して嫡男の隆元に当主の座を任してはいましたが、実際には
隠居の身とはいえ実権は握っていました。


引き続き毛利家の家政を行い、幼い輝元を支えていましたが、元亀2年(1571)に亡くなります。




その後は、輝元は、二人の叔父である元春・隆景に支えられながら毛利家を指揮するわけですが、元春は、天正14年(1586)、隆景は慶長2年(1597)に亡くなります。



なので、ここからが本当の意味で輝元は、自分の意志と決断で進むことになるのですが、その輝元の人生の中で、もっとも苦しい場面が関ケ原の戦いになるわけです。



この少し頼りなさげに感じる輝元を支えた二人の甥がいました。



1人は、毛利両川の一人吉川元春の三男の吉川広家

もう一人は、毛利元就の4男の穗井田元清(ほいだもときよ)の長男の毛利秀元



吉川広家は、猛将の父・吉川元春に似てたいへん戦上手で、慶長の役では加藤清正の救援部隊の一員として大活躍しています。



そして、毛利秀元は、年は若いのですが、二人の叔父(元春・隆景)も認めたとても才気あふれる若者で、天正20年(1592)朝鮮出兵の為、肥前名護屋城に向かっていた豊臣秀吉が、途中広島城に立ち寄った時に、この若い秀元と面会し一発で気に入り、当時当主の輝元には、後継者がいなかったので、この若い毛利秀元を後継者と認定したのち、輝元の養子に入っています。



のちに、輝元には、実子の秀就(ひでなり)が生まれたので秀元は養子を辞退しています。



そして時はくだりいよいよ
関ヶ原の戦いが発生。

当時

毛利輝元48歳 西軍の総大将

吉川広家40歳 東軍側へ内通

毛利秀元22歳 西軍側

安国寺恵瓊62か64歳 西軍側
(毛利家の外交僧)

👇下記に関ケ原の戦いの布陣図を掲載『ウィキペディアから引用』

関ヶ原の戦いの布陣図










毛利輝元は、石田三成と親しい安国寺恵瓊の説得により西軍の総大将として大坂城に入城。この入城の行動は、輝元には珍しく重臣達と相談せずに、独断専行で素早く行動しています。その後、自身は、大坂城を離れずに、実際の戦闘は、吉川広家毛利秀元に任せることになります。



輝元が大阪城へ入城後、東軍の徳川家康側勝利を確信していた吉川広家は、輝元を説得しようとしますが、うまくいかずに結局断念。そこで、自分と同意見であった毛利家重臣・福原広俊とともに、輝元秀元、そして恵瓊には
内緒で、独自に家康に接近。



家康側とのパイプ役として親友でもあった黒田長政を通じて家康側に内通する約束をとりつけて、そのかわりに毛利家の所領安堵の密約を成立させています。



そして、いざ合戦が始まると
午前中は、西軍側の奮闘により東軍側が少し押される状態。ここで家康の後方に位置する毛利秀元をはじめとする西軍側が押し出せば、勝利は間違いなし。



しかし、どういうわけか南宮山に陣を構える毛利秀元をはじめ、ふもとの吉川広家も一向に動こうとしません。




このとき、南宮山に陣取る毛利秀元は、重臣の福原広俊から内通の事情を聴いていた可能性があります。というのも、後方に陣取る長宗我部盛親からの出陣要請に対して、『今、兵たちに弁当を食べさせている』と答えて苦しい言い訳をしています。



あきらかに、わざとですね。



結局、吉川広家毛利秀元が動かないために、他の安国寺恵瓊や長宗我部盛親、長束正家と家康本陣後方に陣取る西軍は、ただただ傍観するのみでまったく戦闘をせずに、東軍側から追撃をうけるという情けない結果に終わりました。



勝敗を決したのは、松尾山に陣取る小早川秀秋の15000の裏切りが決定打になったわけですが、それに加えて、南宮山に陣取る毛利秀元の15000も
何もせずに、傍観するというまさに、ここぞという時に頼りにしていたこの2つの部隊の裏切りは、石田三成や大谷吉継にとっては、命取りになりました。


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【関ヶ原合戦後の毛利家の処遇について】


西軍の総大将についていた毛利輝元は、無傷で大坂城にいるので、大坂城に籠城して、徹底抗戦する道もあったのですが、吉川広家がうまく家康を説得したといういきさつを知り、大坂城開城要求に現れた、福島正則と黒田長政に対してあっさりと大坂城を引き渡し、退去しています。



しかし、これは、家康の罠でした。




家康側から突如として、毛利家の領地はすべて没収するとの連絡が黒田長政を通じて吉川広家に通達されました。




毛利領の安堵は、あくまで、当主の輝元が関知しないまま、西軍の総大将にされた場合のみで、今回大坂城から発見された書状には、輝元の花押が押された書状が多数見つかった為、今回の西軍総大将になったのは、たまたまではなくて
積極的に輝元が関与したために、致し方ないと。



そして、吉川広家に対しては今回の関ケ原の戦いの功績により領地没収をした毛利領の中から、2か国周防・長門37万石を与えるということに。



この知らせを受け取った吉川広家は、慌てました。いままで、内通工作をしてきたのも、すべては、毛利本家を含む毛利家全体の現状維持のために頑張ってきたのに、結果的に自分だけが恩賞を受け取ることになっているのですから。



これでは、何のために交渉してきたのか意味をなしません!!




そこで、広家は、
『私に対してのご配慮はありがたいことですが、毛利本家の輝元だけが処罰されてわたくしだけが、助かっても面目がたちません。もし、輝元に対して罰を与えるならば、わたくしにも同様の罰を与えてください。
 もし、ありがたくも毛利の家を残していただけるなら、輝元はこの大恩を決して忘れませんし、万が一輝元が徳川様に対して歯向かうような事態になればわたくしが、輝元の首を取って差し出す覚悟があるので、御安心ください』




この吉川広家の熱い思いが通じたのか、家康は本来、広家に与えると決めていた周防・長門の2か国を毛利本家に安堵するということに決定。




そして、毛利輝元・秀就父子の命も保証することを認めてもらうことに成功しました。まさしく、広家の働きによってかろうじて、毛利本家を守ることができました。




毛利家にとっては吉川広家は救世主だったわけですね。一歩間違っていれば、間違いなく毛利家は断絶し滅んでいたわけですからね。



そんな吉川広家は、あくまで本家を救ったわけですが、そのピンチを救ったわりには、あまり評価は高くなく、逆に毛利家の危機をもたらしたとみなされ、
その後の毛利家中の実権から遠ざかることになります。




とくに、毛利秀元との仲はあまりよくはなかったみたいですね。そんな吉川広家役は、今回の大河ではおそらくといいいますか、関ケ原の描きかたからみるにたぶん、出てこないだろうけれども、ぜひみなさんに広家の活躍を知っていただきたく今回の記事を作成しました。




改めて振り返ってみると、毛利家の当主・毛利輝元は、叔父の元春・隆景の支えがあり、そんな二人が亡くなったのちも、吉川広家毛利秀元の二人の甥にも恵まれ、そして毛利家を守りたいという創業者の毛利元就の遺訓が、あったおかげで助かったわけで、本当に毛利家の結束力があったからこそ、明治維新まで長州藩として家名を残せたわけで、やはり、家族愛は大事だなと感じました。



【最後に!】


関ヶ原の戦いは、秀吉亡きのちに起こったまさしく、天下分け目の戦いでこの戦いを企図したのは
豊臣家のためだけを考えていた石田三成や三成に共鳴した大谷吉継によって発生したわけですが、
結果的にみれば、うまく徳川家康にまんまとはめられたとも見ることができます。

時代の流れはどんどんと徳川家康を中心とした徳川政権へと移行していくなかで
石田三成や大谷吉継と間近に接していた真田信繁が、最後に、徳川家康を追い詰めるとは………。

自分が正しいと信じる道へ、ただひたすらに突き進む1人の男の姿に
何とも言えぬ爽快な気持ちにさせられます。
ちょっと語りすぎかな(苦笑)

さて、真田信繁の人生感に大きく影響を与えたであろう石田三成と大谷吉継に関する記事はこちらです

真田丸のキャストの中で1・2を争う高潔な武将こそ大谷吉継

大河ドラマ真田丸の戦いで描かれる関ケ原群像劇について

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