第4回目でついに、
戦国時代きっての大波乱、


本能寺の変が勃発。




出浦昌相(いでうらまさすけ)を始めとする忍者が大活躍します。

今回は、忍者を特集します。

それでは、いきましょう!



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【実在しそして活躍もし真田の情報網を統括】

戦国最強と恐れられた武田信玄





あの織田信長でさえ、
信玄が在世時は、同盟関係を結ぶなどして






できるだけ、
武田信玄
怒らせないように、
気をつけていたほどの人物です。





なぜ、信玄がそれほど強かったのか?





武田の騎馬軍団が最強だったからでしょうか?






いや、そうではなく、
武田信玄が強かったのは、







あの、『風林火山』の軍旗からもわかるとおり
最強の兵法書、
『孫子の兵法』の使い手だったというのが
大きいと思います。






『孫子の兵法』では、
敵を知り己(おのれ)を知れば百戦危うからず

という言葉があります。







これは、
敵方の戦力と自分の戦力を
冷静に分析できる情報があれば、







戦う前から
どちらが、勝つか負けるかがわかるので、
100回戦ったとしても
まず、負けることはないと
いう意味です。







つまり、情報がすべてになるわけです。






これは、現代ビジネスにおいても
十分通用する考え方ですよね。






なので、
『孫子の兵法』の実践者の
武田信玄は、
特に情報収集に力を入れていました。







そこで、登場するのが忍者です。




【戦国期最大規模の忍者集団とは?】

戦国武将の中でも、
この忍者という隠密集団を組織だてて







整備し諜報機関として、
機能するように力をいれていたのは
武田信玄でした。







信玄の諜報機関として活躍した忍者集団は、
『三つ者(みつもの)』と呼ばれるそうです。

三つ者は、間見(潜入)
     見方(外部からの探索)
     目付(動静監視)
の三職に携わる忍者の総称です。







この『三つ者(みつもの)』
と呼ばれる忍者集団は、








僧侶や商人などの様々な職業に
扮装(ふんそう)することにより
情報収集するというのが特徴です。






これだと、
本当に自分の領国内に紛れこまれると
見分けがつかないので、
どうしようもないでしょうね。







この三つ者に、
よってもたらされる情報によって







自分の本国にいながら、
日本全国の情報を把握するようになった








武田信玄公を
『脚長坊主』というあだ名がつくほどに!!







そして、
この三つ者を配下に抱え、






統率したのは、
武田四天王の一人である、馬場信春である。








この馬場信春は、
武田信玄の父、信虎時代から武田家に仕え
信玄・勝頼と三代にわたって仕えた人物で







数々の戦闘に参加したが、最後の戦い、
『長篠の戦い』まで
キズ一つ負わなかったそうです。







『甲陽軍鑑』という歴史資料には、







この馬場信春の逸話が数多くしるされ
ていて、
まだ信春が教来石氏(きょうらいし)






名乗っているころに
武田信玄の軍師と言われた、







山本勘助から、築城術を教わったとされ、
武田方の支城を築城し、
のちに築城の名手との評価もあります。








こうやって見てくると
この馬場信春が、







武田の情報網も管理し、
しかも戦闘に参加すれば
必ず軍功をたて、城の築城もできると、







まさに八面六臂(はちめんろっぴ)
大活躍ですね。








もし、馬場信春が長篠の戦いで死ななければ
とつい考えてしまいますが



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武田勝頼に関する記事はこちらを参照してくださいね。
真田丸で武田勝頼役を演じた俳優・平岳大さんとは
武田勝頼役を演じる平岳大さん


















武田勝頼は、
この馬場信春ともう一人の四天王山県昌景
疎(うと)んじる傾向があり、



疎んじる?

ちょっと意味がかわりづらいですよね。






つまり、遠ざけて親しまないという意味だそうです。






実に惜しいことですね。
自分より年上の先輩各の
意見を聞きたくなかったのでしょうか?






現代でも新社長に代替わりした時に
先代に仕えた良き補佐役の意見は、





耳が痛いことが
おおいので、






自分の息(いき)のかかった部下を
登用して、
口やかましい先代の補佐役を遠ざけるみたいな
事ってありますよね。






また!脱線しました!!
え~と、






そう、三つ者の忍者集団を統率した
お頭(かしら)こそ、
出浦昌相(いでうらまさすけ)又は、盛清(もりきよ)です。
真田丸 出浦昌相
 

 

 

 

 

 

 

出浦昌相は、天文15年(1546)生まれで
真田昌幸は、天文16年(1547)生まれで






1年違いで年が近かったので、
話もあっただろうと思われる
信濃の埴科郡坂城町出浦の生まれ。







北信濃の豪族
村上義清に仕え、







この村上義清
たいへん武勇に優れており、
長槍による槍衾(やりぶすま)戦法を得意とし
武田信玄の猛攻を2度も撃退するほどです。







しかし、
信玄配下となった真田幸隆(信繁のお祖父さん)によって
村上側の武将が調略(ちょうらく)され、







ついに
天文22年(1553)、
ついに北の長尾景虎(上杉謙信)を頼って
越後に落ち延びることになる。







もちろん、出浦昌相も越後に逃れたあと、
武田信玄配下の三つ者の頭目として活躍。








そして、時は流れて天正10年、
武田勝頼が、自害して武田家が滅亡。








ここから、織田の配下で、
森長可属し、本能寺の変を迎える。





変直後、







森長可配下の信濃国衆たち、
ほぼ全員裏切ったが






出浦昌相は、森長可が織田領国内まで撤退するまで、







見送っていき
森長可から、感謝の脇差を贈られたそうです。








忍者として、優れていただけでなく
以外と仕えた主(あるじ)を最後まで見捨てない
人情深いところが、あったのでしょう。







そして、
ついに真田丸の主人公の父・真田昌幸の忍び衆を統率して
その後の真田家を大いに裏方として、
支えることになるのです。








この先は、真田丸を見て、私も勉強したいと思っております(笑)






【最後に!】


無名の出浦昌相が今年の大河で一躍脚光を浴びることになりましたが、そんな男の中の男でもある
出浦役を演じた寺島進さんとは、どんな人物なんでしょうか?

詳しくは下記の記事をご覧くださいね。


寺島進さんにとって殺陣は初心に返る為の原点!!






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