期待を集めた、第1回目の放送が終わって
いろいろ感想や意見が出てきましたが、
おおむね、良い感想が多かったと思います。
物語は真田家が仕えていた武田家が滅ぶ
ところからスタートといういきなり
修羅場のシーン設定で、
グイっと視聴者を引き付けに成功。
特に豪華俳優陣のキャスト設定も良く、
特に良かったのが
武田家の最後の当主、
武田勝頼を演じた平岳大(ひらたけひろ)さんの
演技が光りました。
平岳大さんについてシェアしたいと思います。
それでは、いきましょう!
小見出し
【大河ドラマの歴史の重みのなせる技】
まず、平岳大さんについてなんですが、
生年月日が1974年7月27日生まれで現在41歳。
とても、ハンサムで身長も183㎝とスマートな印象。
そして、ご存じの方もいらっしゃるとおもいますが、
父親は 平幹二郎さん
母親は 佐久間良子さん
という完全な俳優一家としての生い立ちがあるのです。
なので、やはり、血はあらそえぬといいますか、
自然と俳優業のほうへと進んでいかれるのですが、
当初は、絶対俳優業以外の道へ進もうと
医者を目指して、
アメリカの名門ブラウン大学の理学部応用数学科へ進学。
しかし、大学を卒業して
いよいよ医者に向かっていこうとするとき
ある面接で
『あなたは、医者ではなく別の道に進みなさい!』と言われ
別の道に進むことになるそうです。
しばらくは、一般企業に勤められたそうですが、
27歳の時に、役者業に転身。
母親の佐久間良子さんは、
当初反対していたそうですが、
もういい大人なんだから、
好きにしなさいと言われたそうです。
そして、地道に実績を積まれてこられたわけですが、
やはり
お父様、お母様ともに、
過去の大河で主役を張られている
大俳優の血が、なせるわざなのか、
どんどん役者としての
実力をつけてこられたのでしょう。
平岳大さんは、本当に血筋でいえば、
超一流なわけで
血筋からいえば、
大河ドラマの申し子といえるのでは
ないでしょうか。
このキャスティングをした三谷幸喜さんも
かなりの歴史通で
お父様の平幹二郎さんが
過去の大河で武田信虎役を演じて
おれれることも、
もちろんわかっていて配役されたと
思いますし、
やはり大河ドラマという
一年間放送されるドラマというのは、
すごいことだなとつくづく感じました。
みなさんも過去の作品から
その時の自分史と重ね合わせてみて
もらえたら、本当に楽しいですよ。
こちらのページをぜひご覧くださいね。
➡歴代の大河の名前と主役の人物表
【武田家を滅ぼした原因とは何なのか】
そして、いよいよ第2回目では、
武田勝頼が天目山で自害するシーンが
登場すると思いますが、
なぜ、このような事態に陥ってしまったのか?
ここからは、わたくしの想像の域なので
というか、400年以上も前の出来事なので
誰もが、真実はわからないわけですが、
わたくしは、武田信玄の治世の時にすでに、
要因があったと思うのです。
まず、一つ目は、
あの越後の龍、上杉謙信との対決ですね。
有名な川中島の戦いというのがあるのですが、
なんと!!
この戦いは、実に12年間も続く長期戦で
双方共に北信濃の領地の境界戦で
実に通算5回も対戦しているのです。
特に第4回目の戦いが有名で
あのあの謙信と信玄が一騎打ちをしたことで
有名な戦いで、
この戦いは双方の戦死者が7000人もでるような
とんでもない痛手をこうむった戦いなのですが、
実は、この戦いで
信玄の実弟の武田信繁が、信玄を守るために
討ち死にしてしまったのです。
この信繁は、信玄の父親、
つまり信虎が長男の信玄よりもこの
信繁を跡取りにしようと、したほどの器量もちで
家中からの人望も厚い人物でした。
そして、信玄が当主となってからは、
兄である信玄を良く支えていて
もし、信玄が亡くなってしまっていても
この弟さえもし、
生きていればと思わせるほどの人物が亡くなって
しまったのです。
信玄は信繁が亡くなった時、
号泣してその死を悲しんだと伝えられている
そうで、本当によくできた弟だったのです。
そして、みなさんお気づきでしょうか?
武田信繁(たけだのぶしげ)
そう、信繁って!?
真田信繁と
一緒の名前ですよね。
そう、父親の真田昌幸が
信玄の実弟の信繁のような優秀な武将に育って
欲しいと思ってこの名をつけたと思うのです。
昌幸は信玄のお付きとして
この第4回の川中島の戦いで
初陣を飾った可能性があるのです。
実戦でこの武田信繁の奮闘ぶりを
まじかに見ていたからこそ
信繁の名を、
自分の息子につけたのかも、しれませんね。
真田家と武田家の歴史を知りたい方はこちら
➡真田丸キャストで気になるのが織田信長をどの俳優さんが?
そして、二つ目の要因は、
信玄の長男の義信を謀反の疑いで
自害させてしまったことです。
これは、なかなか
難しい事件で、
実は、第4回の川中島の戦いの前年
つまり永禄3年(1560)に桶狭間の戦いで、
駿河の雄
今川義元が織田信長によって討ち取られたために
武田の本拠地、
甲斐の南の駿河の今川家が急速に衰退していきます。
武田信玄がこの絶好の機会を見逃すわけもなく、
駿河の今川家に
侵攻しようとしたのですが、
長男の義信の奥さんは、今川義元の娘を迎えているので
義信にしてみれば、
義理の父親にあたる今川家を滅ぼすことは
どうしても、許せない行為で、
父信玄を暗殺する計画を
立てていたのですが、あえなく信玄に露見(ろけん)するところ
となり、甲府の東光寺に幽閉されることになるのです。
謀反が発生した永禄8年(1565年)10月で
義信が死去したのが永禄10年(1567年)10月19日
約2年の空白があるということは、信玄も息子義信を
許す機会を待っていたのかも、知れないですね。
このややこしい父子関係をもし収めることが出来る人物は
と言えば、やはり実弟の武田信繁が、
生きていればと思うのですが、
実は、この謀反をいち早く信玄の耳に入れたのが
飯冨三郎兵衛、のちの山県昌景なのですが
その山県昌景が信繁がもし生きていれば、この義信事件は
起こらなかったといわれているので、誠に残念といえます。
そして、三つ目が、
信玄の後継者として
急遽、勝頼を抜擢されたため、家臣団を一つにまとめる
ことが出来なかったことがあげられます。
信玄は死にさいして、
『信玄自身の死を3年の間は秘匿し、武田勝頼には
勝頼の息子・信勝継承までの後見人として務め、
越後の上杉謙信を頼ること』
を言い残したそうである。
勝頼はもともと諏訪家を継承し
諏訪四朗勝頼を名乗っていたぐらいなので
当初は、信玄の跡取りとは考えていなかったと思われる。
が、長男の義信が死去したため、
慌てて跡取りに決定している。
そして、勝頼の息子の信勝が成人するまでの
あいだの後見という立場が
いかにも、当主として立場が危ういというか
家臣団をまとめきれなかった原因かなと推察します。
以上三点を挙げてきましたが、
こうやってみてくると、やはりこの曲者(くせもの)ぞろいの
家臣団を一つにまとめていた武田信玄の統治力というのは
凄かったということでしょう。
勝頼は、武将としてはたいへん優れていたのですが
やはり、一国の当主としての幅広い器量はなかったと
いうことなんですね。
ですが、偉大な父を持つ2代目の苦しみはいつの世も
あるわけで、その父をもつ2代目として生まれた
運命を背負いつつ必死に生きようとした
人生に心を打たれます。
きょうのドラマがとても楽しみになってきたので終わりたいと思います。
つい熱くなって長文となってしまいましたが
ここまで、お付き合いしてくださったかたに感謝いたします。
ではでは。
真田丸をもっと知りたいかたはこちらの記事もいかがですか?
信繁やお兄さんの信幸には姉がいたことはご存じですか!
詳しことは
こちら➡大河ドラマ真田丸の相関図を眺めてみて
真田信繁がもっとも愛した女性はこちら!
➡真田丸では、正室の竹林院のキャストはないのか?
はじめまして。
第2話の勝頼自刃シーンがあまりに素晴らしく、感動したので
フェイスブックに感想をアップしたのですが、その際こちらの
勝頼姿の平岳大さんのお写真をお借りしました。事後報告に
なってしまい申し訳ありません。何か問題がございましたら、
削除しますので、ご連絡ください。
わざわざご連絡ありがとうございます。勝頼の最後のシーンは、とても荘厳で
悲劇的で私も、たいへん感動しました。写真は、気に入っていただいたなら
使ってもらっても大丈夫です。ではでは。