いよいよ天下分け目の関ケ原の戦いが始まります。もちろん、今年の大河のもっとも華々しいクライマックスは、主人公の真田信繁【堺雅人】が大奮戦する大坂の陣なのですが、その前哨戦ともいえるクライマックスが、この関ケ原の戦いになります。

関ヶ原の戦いは、東西両軍合わせて約20万近い軍勢が戦う戦国最後の大合戦。
軍勢の数は、諸説ありますが、西軍・石田三成方が、約8万。

かたや、東軍・徳川家康が、約10万と軍勢の数で見ても、ほぼ互角です。

なので、この大合戦が、まさか一日で終わるとは、誰も予想できなかったはずです。

それでは、今回、この天下分け目の関ケ原の戦いについて、シェアできたらと思います。

それでは、いきましょう!

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【なぜ、豊臣恩顧と言われた加藤清正らは、家康に味方したのか?】

まずもって、この関ケ原の戦いがなぜ発生したのか?

ここのところを理解していないと、豊臣秀吉のもとで活躍した加藤清正や福島正則が、なぜ徳川家康側になって戦っているのかがわからないと思います。

だってそうですよね。徳川方で戦っている武将達は、本来であれば豊臣政権側の人間なのに、なぜ徳川家康側で戦っているの?

という疑問が払拭できないはずです。

石田三成とは同じ豊臣家の同僚なんですからね。

真田丸でも描かれていましたが、豊臣家の武断派と言われる7将、
いわゆる実際の合戦で現場で指揮をとる武将達ですが、加藤清正・福島正則等が、石田三成の命をねらって襲撃していましたよね。

なぜ、そこまで石田三成を憎んだのか?

これには、豊臣秀吉が生きていた時からすでに政権内に不満が蓄積していたのです。秀吉が、主君・織田信長を討った明智光秀を倒した天王山(山崎)の戦い【天正10年(1582)】を皮切りに、

                      秀吉軍

★賤ヶ岳の戦い     天正11年【1583】 5万

★小牧・長久手の戦い  天正12年【1584】 10万

★紀州征伐       天正13年【1585】 10万

★富山の役       天正13年【1585】 7万

★九州征伐       天正14年【1586】 20万

★小田原征伐      天正18年【1590】 20万

上記を見ていただきたいのですが、ほぼ毎年のように合戦が起こっていますよね。小牧・長久手の戦いは、相手があの徳川家康・織田信雄連合軍だったので、じっさいの合戦では、敗れていますが、秀吉の巧みな政治力を武器に、秀吉の臣下に組み入れています。

これだけ合戦続きなので、もちろん秀吉の子飼いの武将と言われた加藤清正・福島正則をはじめとする武闘派が大活躍しますし、もちろん、出世街道まっしぐらで、豊臣家の中でも地位や発言を高めていったわけですが、天下統一事業が達成する小田原征伐の頃には、秀吉軍は、20万ともいわれる大軍勢を統率しなくては、ならなくなっています。

もうこれは、地方の小領主の国衆といわれた人々の争いからみたら
とんでもない規模での合戦で、これだけの大軍勢を移動させるわけですから、兵士の武器や食料といった後方支援が、かなり重要になってくるわけです。

いわゆる兵站といわれるものですね。

そこで、この兵站業務をそつなくこなす武将が必要になってくるのですが、これがいわゆる吏僚派とも言われた石田三成をはじめ大谷吉継等らが豊臣家臣団の中で、段々と力を持ち始めてくるわけです。

そして、国内に合戦がなくなるとこれからは、平和な時代へと移行していくのが、当然のなりゆきですが、これまで、敵を求めてその勢力を拡大してきた豊臣政権にとって合戦がなくなるとたいへん困るわけですね。

そこで、秀吉はすでに、天下統一事業の半ばからの夢でもあった唐・天竺、いまでいう中国やインドまでを征服するという途方もない野望を燃やします(笑)

いわゆる男のロマンというやつですかね。

当時の中国は、明の時代です。この明国を征伐する手始めとして朝鮮半島への出兵を現実に実行していきます。

そう文禄・慶長の役【1592~1598】といわれた秀吉の最後の戦いです。とくに、2回目の慶長の役での、蔚山城の戦いの顛末をめぐって
秀吉家臣団の亀裂は、決定的になってしまいます。

ここらへんの詳しい解説は、下記の記事をご覧になってくださいね。
とくに記事の後半部分で解説しています。
真田丸のキャスト・福島正則役は、モデル出身兼デザイナー?

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【いざ関ケ原へとつき進んだ諸将の思惑は?】

さて前回の真田丸の放送にあった、犬伏の別れのような葛藤がどの大名にもあったわけで、真田家は、真田昌幸【草刈正雄】・信繁【堺雅人】は石田方に、そして信繁の兄・信幸【大泉洋】は徳川方へと真田家は真っ二つに割れました。

これは、真田家のどちらが勝っても真田家が残るという戦略でもあったわけですが、真田家だけではなく他の大名家でも東西両方どちらが勝ってもいいように別れた家もたくさんあります。

現代の私たちは結果がわかっているので、たやすく決定できますが、当時の人々にとってまさに命がけ。どちらにつくかで、天国と地獄ぐらいの差があるわけですから、卑怯といわれようととにかく勝ち残ったほうが正義になるわけです。

しかし、この関ケ原の戦いで武将クラスで現地で最後まで踏みとどまり亡くなったのはただ一人。そう大谷吉継です。


大谷吉継に関してはこちらの記事をどうぞ
真田丸のキャストの中で1・2を争う高潔な武将こそ大谷吉継


大谷吉継は、同じ近江の出身ということもあり石田三成とは無二の親友でもありました。そして、吉継は、このときハンセン病という病に侵され目も見えていなかったとか。

しかし、秀吉をして『百万の軍勢を与えて指揮させてみたい』といわれたほどの才能豊かな人物で、この関ケ原の戦いも戦う前から、すでに勝機はないと見切っていたと思われます。

無二の親友

ですが、無二の親友でもある石田三成が何としても徳川家康を打倒したいという熱望にうたれ、自身の命を三成にささげる覚悟を決めました。
この友のために全力をささげた行為は、いまなお戦国時代の中でもキラリとひかる義の精神が、人々を引き付けてやみません。己の欲望や夢にぎらつく世の中でこのような男がいるというだけで、なぜかすがすがしい気分にさせられますね。

とても、まねることはできません(笑)

石田三成や大谷吉継の頑張りもむなしく結局は敗れるわけですが、これは戦う直前まで、調略活動をつづけた徳川家康によって西軍側に属していながら、すでに家康に内応を決めていた裏切り者、たとえは小早川秀秋なんかは、完全な裏切り者ですが、実際の戦場となった関ケ原でも、石田三成や大谷吉継と共に必死に戦ったのは、宇喜多秀家と小西行長ぐらいで、実働部隊としては、3万ぐらいですか。

この3万の軍勢で、倍以上の東軍相手に午前中だけでも、持ちこたえていたわけですから、もし、もう少し味方を増やすことが出来ていたら戦局は、どうなっていたかわかりません。

そして、真田親子の昌幸・信繁は、徳川本隊であるのちの2代将軍になる徳川秀忠率いる3万以上の大軍を結局、本戦の関ケ原に遅刻させるという大活躍をしていながら、敗者として処罰されることになります。

しかし、犬伏の別れで徳川方についた兄・信之の必死の嘆願でなんとか父と弟の命だけは、助かりました。しかし、信之と昌幸と信繁の三人が顔を合わせる機会は、その後一度もなく、まさに本当に永遠の別れとなってしまったのです。

さて、真田丸では、どのようにこの関ケ原が描かれるのかとても楽しみですが、主人公の真田信繁は、このあと、とんでもない運命が待ち受けていようとは、考えもしていなかったでしょうね。

いよいよ本当のクライマックスに向かって物語は突き進んでいくのでまだまだ、見逃さずにご視聴くださいね。それではここまで、読んでいただきありがとうございました。

【最後に!】

関ヶ原の戦い【慶長5年(1600)】が発生した当時の、石田三成の領国の石高は、19万4000石で、対する徳川家康は、256万石と、当時の石高で見れば圧倒的に家康の方が
格上で、あきらかに石田三成の方が、不利な状況でした。ですが、そんな不利な状況をもろともせず、果敢に挑戦した石田三成。本当に熱い人物だったんですね。

関ヶ原の布陣図を見ても、明らかに周囲の高台を抑えた三成方が優位なはずなのですが、実際に戦闘に加わったのは、大谷吉継をはじめ、石田三成の同士といわれた小西行長や宇喜多秀家ぐらいで、あとは、黙って戦(いくさ)を傍観するのみ。

豊臣家の存続を願って行動を起こしたものは、少なくて、みな三成憎しという武断派は、すべて徳川家康側となって戦いました。これは、豊臣家臣団の派閥抗争をうまく利用した徳川家康にまんまとのせられたわけで、やはり役者としては、徳川家康が一枚も二枚も上手だったわけですね。

しかし、この強敵にしり込みせずに果敢に戦いを挑んだ石田三成、近年ますますその人気は上がりつつありますが、そんな石田三成に関する記事は下記をご覧くださいね。

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