伊達政宗と言えば、言わずもがな独眼竜政宗といわれていますよね。実は、この独眼竜にはモデルとなる人物がいます。
その人物とは、中国の唐の時代の末期に活躍した李克用(りこくよう)になります。戦争をさせたらピカイチでたいへん優れた猛将だったそうです。李克用の場合は、生まれつき片目が不自由だったといわれています。
この李克用のあだ名である『独眼竜』を伊達政宗にあてがったのが江戸時代の歴史家・漢詩人でもある頼山陽(らいさんよう)というお人で、特にこの人が表した【日本外史】(にほんがいし)は、幕末の尊王攘夷運動にたいへん影響を与えたそうです。
当時の志士たちの愛読書になったそうで、伊藤博文、近藤勇なども読んだいわゆるベストセラー本だったとか。読みやすかったのかなと思われますが、伊達政宗に独眼竜のあだ名をつけたのは、大正解ですね。
そんな、独眼竜政宗の生涯を常に補佐した人物が、片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)になります。
今回は、片倉小十郎についてシェアできたらと思います。
それでは、いきましょう!
小見出し
【伊達政宗の懐刀(ふところがたな)】
伊達政宗と言えば「独眼竜」の異名で知られた戦国武将です。この政宗に仕えた有名な武将をあげるとすれば「伊達成実」と「片倉景綱」の2名の名前が真っ先に出るのではないでしょうか。
景綱は「片倉小十郎景綱」とも呼ばれていますが、これは景綱の通称であり、「片倉小十郎」と言われたりもします。
さて、その景綱ですが、生涯政宗に仕えた武将として知られ、政宗が幼い頃から近侍として仕えていました。諸説ありますが、病気により片目を失明してしまい、目玉が飛び出している政宗に対し、刀でその目玉を斬りおとすように言ったのが景綱だという話しがあります。
ただし、政宗が高齢になった際に、とある人物が「目玉が飛び出して醜い」というような主旨の話しを残しており、真意のほどは定かではありません。
しかし幼き頃に身体的なネガティブを抱えてしまい、実の母からの寵愛を受けられなくなった政宗に対し、10歳ほど年の離れた景綱は、政宗のその後の人生に大きな影響を与えた人物であり、政宗の信頼を勝ち得たというのは揺るぎない事実です。
【伊達政宗の信頼熱き軍師】
同じ時代の戦国の覇者・織田信長の影響もあって、早くして家督を継いだ政宗の軍師として、景綱は伊達家の東北地方統一に大きく貢献します。佐竹、蘆名の連合軍との人取橋の戦いや、南奥州の主導権を争った摺上原の戦いでは、政宗を幾度も助けたというエピソードが残っています。
また政宗が奥州の覇権をほぼ手中にしたとき、豊臣秀吉は既に北条を抑え、ほぼ天下統一を成し遂げていました。秀吉からすれば、政宗は田舎の大将という位置付けであり、その勢力差は歴然でした。そんな秀吉の再三の呼び出しに応じなかった政宗に小田原参陣を決意させたのは景綱だと言われています。
政宗は天下が秀吉のものとなった後も、関ヶ原の戦いの際も、その後の家康が江戸幕府を開いた際も、ずっと天下を狙っていました。そんな政宗は秀吉や家康からすれば一目置く存在であり、油断ならない人物であったのですが、その目線は景綱にも注がれていました。
もちろん景綱に天下取りの野望は微塵もありませんでしたが、天下取りを狙う政宗に仕える優秀な部下、ということで景綱も一目置かれていました。このように伊達政宗を語る上で、欠かせない人物の1人が「片倉小十郎景綱」なのです。その有能さゆえに、多くの武将から引き抜きの声があったらしいですが、景綱は全て断っています。伊達家と政宗に忠誠を誓い、それを全うした景綱は59歳でこの世を去りました。
【最後に!】
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