石田三成こそ、真田昌幸を策士として
認めていた人物になります。



昌幸は、第一次上田合戦(1585年)当時、上杉景勝に仕え、
徳川家康と対立しました。



そして、見事に撃退するわけですが、
まだ、天下統一前の徳川家康軍を蹴散らしたこの戦いは
大いに、真田の武名をとどろかせました。




翌年、上杉景勝は、上洛し豊臣秀吉に臣従した。
その上洛の労をねぎらった手紙には、豊臣家奉行の石田三成・増田長盛
景勝へ宛てて書いた添え書きがありました。




その添え書きには、
真田昌幸のことを、
『表裏比興の者』(ひょうりひきょうのもの)と評した言葉が。




これは、
どう意味かといいますと
表裏は、言葉どうり
表と裏の顔があり、知恵者で




比興(ひきょう)とは
現代では卑怯(ひきょう)という漢字を
使いますが、




これは、当て字で使われていて
漢字の本来の意味に関係なく
使われているので、卑怯者(ひきょうもの)という意味ではなく




『くわせもの』または、『わるがしこい』
という意味が正解です。




三成家康相手に、天下分け目の大戦(おおいくさ)を
仕掛けるほどの、策士なんですが
その三成から、
『表裏比興の者』と言われるくらい
真田昌幸は、ワンランク上の策士だと
認めていたということになります。




実際に、関ケ原の戦いの挙兵のとき
すぐに、昌幸に手紙で連絡してきています。
昌幸の実力を、認めていたからこその
行動ですね。




すこし、前置きが長くなりましたが
今回は、そんな真田家と関係が深い
石田三成について、シェアしていきたいと思います。



【島左近との出会い】


天下分け目の戦い、関ケ原で奮戦し
最後は、壮絶な討ち死にをした、島 清興(しま きよおき)




通称は、鬼左近





戦国時代を代表する猛将と知られていて
絶大なる人気を誇っています。




では、なぜ、この猛将が
石田三成のもとで活躍するように
なったのか?




そもそも、石田三成は、戦働きで出世したわけではなく
卓抜した民政の能力、




いわゆる事務を得意とし
豊臣政権が確立していくためには
欠かせない人物でした。




ですが、時は戦国時代。



計数に明るいだけでなく、戦働きも
求められる時代なので




もちろん三成も戦(いくさ)に出向くわけですが
いかんせん、不得手な分野。




そこで、その軍事面を補うために
常にその道のプロの人材を探していました。




その一方で、島左近
筒井順慶(大和【奈良】の戦国武将)の家老として活躍していましたが



順慶が病気で死去。あとを継いだのは順慶の甥、筒井定次




ただ、この定次とは意見が合わず、筒井家を辞職。

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その後、何人かの大名に仕官するも
しっくりせず、浪人生活を過ごしていたところ
運命の出会いが!




戦闘のプロを探していた石田三成
自分の戦闘力を誠に理解してくれるあるじを
探していた島左近




まさに相思相愛ですね。




三成のもと、まさしく水を得た魚のように
活躍していきます。




この島左近を三成が召し抱えるときに、払った給料が
当時三成が支配していた知行(ちぎょう)、つまり
収入の半分を支払ったという逸話があります。




つまり、それだけ島左近をどうしても
家来にしたかったわけですが
それにしても、収入の半分、
給料の半分を渡して、雇うとは
思い切ったものですね(笑)




当時、
『三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城』
という唄が流行ったそうな。




この唄にある佐和山城は、佐和山(標高233m・比高145m)という
山全体がお城というとても立派な城だったらしいのですが
城の内部はというと、実に質素なつくりで
これが、豊臣政権の実力者の城かと
思われるほどに、華美なところは、なかったとか。




石田三成という人物は、
まさに、自分を引き立ててくれた秀吉の為以外
の欲は、持ち合わせていなかったのでしょう。





自分にも厳しかっただろうし、他人にも
その厳しさを求めたのかもしれませんね。




【盟友・大谷吉継】


そんな、かたくなな石田三成の秀吉に対する忠誠心を
もっとも、理解していたのが、
三成の大親友でもあった、大谷吉継であります。




大谷吉継の出自は、いろんな出自がありますが
石田三成と同じく近江国(滋賀県)の生まれと思われます。




若くして秀吉の小姓として仕えることに。




大谷吉継の母は、秀吉の正室・高台院(ねね)に仕えていた
女中で取次役という重要な役目を負っていたこともあり




秀吉は、先祖伝来の譜代の家臣をもっていないので
少しでも、血縁や関係のある人を家来にして
家臣団を形成していたので




大谷吉継も秀吉からの信頼はとても
厚かったと思われます。




大谷吉継は、三成と共に、




事務官僚として豊臣政権の裏方を
支えることになるのですが、




吉継は、三成と違って、武将としての
才覚も豊かであり、決して
満足していたわけでは、ないのでしょうが




三成に頼りにされていたことは
容易に想像されますね。

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武辺者が多い中で、計数に明るい人材は
数すくなかったので
三成のよき相談相手で
あったのかなと思います。




ただ、そんな有能な吉継には
不幸な出来事が!




らい病(ハンセン病)にかかり、顔や頭部を
白布で覆っていたといいます。
一時、病状が悪化し、目を病んで
ほぼ盲目に近かったと思われます。




なので、一時は、引退を考えたそうですが
吉継の才能を惜しんで
三成あたりが引き止めたのかもしれませんね。




結局、常に行動を共にし、出世街道を上ってきた
石田三成から、徳川家康を相手に
イチかバチかの決戦を打ち明けられた時、




大谷吉継は、理路整然と家康に勝てる可能性は
ほぼないというふうに、




逆に三成を説得しようとしますが
三成の決意の固さに
あきらめました。




しかし、共に一緒に過ごした
同僚が討ち死に覚悟で
挑むと聞かされた
吉継の心に、ふつふつと




大敵、徳川家康と一戦交えて
みたいという戦国武将の魂が
よみがえってきて、
『ここは、いっちょ、やってみるか!』




という気持ちになったのかもしれませんね。




結果的には、敗れはしたものの
関ケ原の戦いで、裏切りや傍観するものが
いる中で、最後まで必死に
友の為、いや、死に花をどれだけ
鮮やかにできるかと考えて
いた節がありますが、強烈な印象を残して
この世をさりました。




この生きざまを見守った、真田信繁
戦国時代の幕引きを担うことになります。





今回の真田丸では、
この大谷吉継役を『片岡愛之助』さんが
演じることになりました。




どのように演じられるのか
とても楽しみでもあります。




そして、石田三成は、
『山本耕史』さんが。




お二人とも、公私共に充実されて
おられるので、真田丸の後半も
たいへん、楽しみですね。





それでは、最後までお付き合い
してくださったかたに感謝。感謝。

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真田丸の松は、今後どうなるのでしょう?
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信幸の妻、『こう』(長野里美)も真田一族であったということを
ご存じですか?詳しくは下記の記事を見てくださいね。

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