前回の放送であった、
本能寺の変は、

戦国期を通じて最も大波乱の年で
織田信長が非業の最後を迎えた時、

徳川家康は、堺見物の途中で
供回りの人数も30数名程度で、
たいへん危険な状態でした。

この徳川家康の人生の中で、
最も大ピンチだった苦難を救ってくれたのが
服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさなり)です。

今回は服部半蔵の人となりを紹介したいと思います。

それでは、いきましょう!

小見出し

【ハマカーンとして活躍】

今回の真田丸では、
服部半蔵役を演じておられるのは

お笑いコンビ『ハマカーン』のひとり、
浜谷健司さんです。

相方の神田伸一郎さんが、
有名な『神田うの』さんの弟さんだそうです。

お二人の出会いは、東京農工大学在学中、
共に大学の柔道部に所属していて

先輩であった神田さんが、浜谷さんを誘って、
2000年1月にコンビを結成。
当初、浜谷さんは、
全然、お笑いには、興味がなかったそうです。

『ハマカーン』のコンビ名の由来は、
お二人の苗字
「浜谷(ハマタニ)」と「神田(カンダ)」を組み合わせて、

ハマカンと呼ばれていたそうで、その後
その場の雰囲気で、
『ハマカーン』と変化したそうです(笑)

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ネタに関しては、正統派漫才をメインに
神田さんのボケに浜谷さんがツッコミをいれるという

感じで、特に浜谷さんが、怒りながら、
突っ込むことで
笑いがおこる感じです(笑)

しかし普段の浜谷さんは、めったに
怒ることはないそうです。
あくまで、漫才の中だけだそうで
安心しました(^^)

今から4年前、
THE MANZAI 2012 優勝のネタがこちら
ハマカーンさんの漫才

そんな、浜谷さんが今回は、
真田丸で、忍者で有名な服部半蔵役をやられます。

浜谷さんは、趣味で体を鍛えておられるそうで、
今回の役では、
機敏な動きをされるので、とても楽しみですね。

【服部半蔵がいたおかげで徳川家康は天下を取れた!?】

この服部半蔵(はっとりはんぞう)は、
たいへん忍者として
有名ですが、

実は、半蔵自身は、
槍(やり)働きで出世したれっきとした武士なのです。

じつは、服部半蔵の父、服部保長(はっとりやすなが)は、
確かに忍者として
働き、一時は、室町幕府12代将軍・足利義晴に仕えたことも。

しかし、当時は、室町幕府の衰退期、だったので
服部保長は、三河の松平家に仕官することに。

服部保長は、伊賀の生まれで
忍者として、生計を立てていたのですが、

忍者というのは、当時の階級で、
戦国大名が今の社長に例えるなら
派遣社員という例えになる立場で

いつも、いつも仕事があるわけではなく、
臨時の忙しい時だけ、
雇われるというとても不安定な仕事だったそうです。

なので、仕事がないときは、
商人や農業をしながら、生活するしか
なかったのです。

なので、服部保長は、
生活を安定させるため足軽として、まず、
三河の松平家に仕官し武士として仕えることに
したのです。

天文11年(1542)、服部保長の四男坊として生まれたのが
のちの、服部半蔵です。

若い頃から、立身出世の為、
武芸を磨き、特に尋常ならざる力持ちだったそうで

戦(いくさ)にならば、必ず武功を立てるぐらい
で鬼半蔵と敵から恐れられるほど大活躍。

ですから、服部半蔵自身は、忍者ではないのです。

伊賀者の忍者を率いて棟梁として活躍するので
服部半蔵自身も忍者として
勘違いされてしまったのですね。

忍者ハットリ君のモデルも、
この半蔵だそうで

忍者と言えば、
服部半蔵の名が出てくるぐらいですもんね。

そして、服部半蔵が最も活躍するのが、
天正10年の本能寺の変
起こった直後の家康生涯最大の大ピンチを救う、
いわゆる神君伊賀越えと呼ばれるものです。

本能寺の変が勃発した時、
徳川家康は、堺見物を楽しんでいて

わずか、30数名程度の供まわりしか、
引き連れていなくて
もし、謀反を起こした、明智光秀に見つかったら、
ひとたまりも
なく、絶対絶命の大ピンチ。

堺から、自分の領地、
三河に戻るには、明智光秀に見つからないように

地図(伊賀越えルート)

伊賀の山中を越えて、伊勢のほうに出て、
そこから船で三河まで行くしか
ないと決死の覚悟を決めて、選択。

その時、親父さんが伊賀の生まれの服部半蔵が、
道案内を買って出ました。

この伊賀越えをするにあたり、最も難関なのが
加太峠(かぶととうげ)と言われる一帯
を支配していた山賊で
そこを抜けることは、
とても難しいと思われていました。

そこで、服部半蔵がまず、
取った行為が味方を集めることです。

配下の忍者に、伊賀の国から見えやすい、
御斎峠(おとぎとうげ)という場所で
合図ののろしを上げさせました。

どのような合図かといいますと、
最大の難関である加太峠(かぶととうげ)
のふもとにある、
徳永寺に伊賀者の忍者集合の合図でした。

しかし、これは、危険な賭けでした。

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というのも、
前年の天正9年(1581)に天正伊賀の乱があり
織田信長が5万の兵をもって伊賀の国を征服しており、

当時伊賀全体で
9万の人口のうち、非戦闘員つまり、
忍者でもなく普通の一般市民も
含めて、3万あまりの人々が殺害。

伊賀の人々は、
信長に対する怒りや憎しみは相当なもので
これは、信長の同盟者である家康にも、
その憎しみを向けられる恐れが
ありました。

しかし、一方でこのとき、
危険を察知して、伊賀から多くの人々が
他国へ避難していきました。

そして、そう遠くない家康の領国三河にも
たくさんの避難民が、押し寄せてきましたが、

このとき家康は
快く、避難民の受け入れをし、
食事を与えて保護しました。

そして、いざ、徳永寺に行ってみると、なんと!!
伊賀者の忍者たち、約200名が参集していました。

家康が前年に行った
伊賀の人々を助けた恩義を伝えきいていた
伊賀の人々が、今度はお返しにとばかりに大集合!

そして、伊賀者の忍者集団の助けを借りながら、
無事に加太峠(かぶととうげ)
を突破。

もちろん、服部半蔵も何度も、山賊を倒しながら
無事に三河に到着。

家康は、九死に一生を得ました。

このときのルートがいかに危険だったかは、
当時一緒に行動を
共にしていた、

元武田家臣、穴山梅雪が途中、別ルートで
伊賀を抜けようとして、土民にあっさり殺されています。

なので、もし、
服部半蔵のような命がけで守ってくれる家臣が
いなければ、
のちの天下人徳川家康は生まれなかったことになるのです。

この一事からもわかるように
徳川家康には、譜代(ふだい)の家臣

つまり、家康より前のお祖父さんの代から
仕えたような家臣が
ここぞという大ピンチの時に
必ず我が殿の窮地をまさに命がけで
体を張って守るわけです。

いわゆる三河武士と言われる家臣の
家康に対する忠誠心が半端がなく

家康がのちに天下を取れたのは
このように恵まれた家臣が数多くいた
ことが、原因じゃないかなと感じました。

その後、服部半蔵は、
徳川家に召し抱えた伊賀忍者を統率して
家康を支えることに。

慶長元年(1596)年11月に亡くなりました。
享年55歳。

真田丸では、今後出てくる場面があるのか
わかりませんが、
浜谷健司さん演じる服部半蔵の活躍を期待したいです。
ではでは。

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