先日の真田丸の放送で、豊臣政権で一旦は
後継者としての地位・関白職を譲られた豊臣秀次(新納慎也)。
ですが、秀吉が幼い秀頼を後継者としたいという願望が秀次の立場を危うい状態に追い込んでいきます。
関白職として堂々と振る舞おうとすればするほど秀吉との距離が微妙なものとなり
最期は、自ら自害するという今までにない秀次像が真田丸では描かれました。
そんな秀吉にとっては数少ない味方であるはずの身内に対する冷たい態度は、権力を握ったものにしかわからない
孤独からくる人間不信だったのでしょうか?
すこし、話はそれてしまいましたが、実子がいなかったことから
秀吉の姉・瑞龍院日秀の3人の息子たちは、それぞれみな
養子という形で秀吉政権の重要人物に抜擢されるのですが
秀次の弟二人、秀勝と秀保は若くして亡くなり、
残された秀次も結局は自害となったのですが
後継者と目されるほどに
押し上げてくれたのは、何を隠そう
秀吉の弟・秀長(千葉哲也)の存在が大きかった思います。
秀吉から期待される役回りをこなそうと必死だった
秀次を陰で支え続けてくれていたのが、秀長で
甥である秀次の実績作りの為、紀州と四国征伐の際には
秀次と共に出陣して貢献しています。
そんな、秀次にとっても秀吉にとっても
欠かせない人物であった秀長は
天正19年(1591)、病の為亡くなりました。
52歳。
もし、秀長があと10年長生きしていれば
秀次があのような最後にはならなかっただろうし朝鮮出兵もあったかどうか、歴史にもしもという想定は
つきものですが、これほど惜しまれた秀長とは
どのような人生を送ったのか
見ていきましょう。
小見出し
【秀吉の裏方として支えた弟】
真田丸の中では、登場時こそ、後に切腹に追い込まれることとなる関白・秀次が頼りにするなど、
非常に重要なキャストということができましたが、残念ながら、秀長が辣腕を振るったのは豊臣政権前半であり、
真田丸では多くは描かれないことになります(信繁の合流の時期がだいぶ過ぎてしまっているためです。)
秀長は、秀吉が織田信長に仕えてきた時から、黒田官兵衛と共に、豊臣秀吉を支えた人物です。
官兵衛は以前の大河ドラマでも「軍師・官兵衛」として描かれたように、どちらかといえば、戦いの場面で本領を発揮し、
軍略という意味で秀吉を支えた人物ですが、秀長は軍略というよりも内政という面で秀吉を支えました
(もちろん、共に戦国の世を戦う中で数々の軍功を挙げてはいますが・・・)。
織田信長が本能寺の変で敗れ、秀吉が天下人になると、秀長の役割はさらに大きくなっていきます。
秀吉に従う大名からすれば、秀吉のストッパーとしてのキャスト、ということになります。
【秀吉がアクセルでブレーキが秀長だとしたら】
秀吉は天下統一を成し遂げ、関白となり、その栄華を極めますが、その裏で狂っていくさまが大河ドラマなどでもよく描かれます。真田丸の中でも、拾の落書辺りからだんだんと秀吉がおかしくなっていく様子が描かれています
(ただ、朝鮮出兵に関して秀吉が「とっくに士気は下がっている」等、意外と現実的な目を持ち合わせているのは真田丸ならではの視点であり、従前の秀吉の描き方とは違うのかもしれません)。
その狂っていく秀吉を正しい方向へ修正しようとしていたのが秀長でした。
ただ、秀吉がそうなり始めた頃には既に病の床にあり、実際に秀吉を止めることはできませんでした。
もちろん、石田三成や大谷吉継等は忠言を行いますが、子飼いの大名の彼らの言葉には秀吉は耳を傾けません。
身内の言葉ならあるいは・・・と思わせる出来事が少なくなく、彼の死を惜しんでいた大名も少なくはないでしょう。
実際に彼の死の直後には、千利休の切腹が申し付けられたり、朝鮮出兵が強行されたり、上記したように、跡取りの問題で養子に迎え、関白としていた秀次に切腹が命じられたりと、豊臣政権の崩壊を予感させるような出来事が多々起きてしまいました。
彼が秀吉より、長命であったなら、あるいは秀頼の後見として、家康などに睨みを効かせることもでき、豊臣政権は長く続いたかもしれない、それほどまでの人物です。
【最期に!】
秀長が生前、かばい続けた甥・秀次事件の真相の3つの原因とは?
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