来週からは、いよいよ大坂編がスタート。
秀吉をはじめとする豪華なキャストが多数出演。

ますます、楽しみですね。

真田信繁の視点からみた豊臣政権を見られるというのが
いままでになかった視点なので
新たな、きずきや発見があるやもしれません。

そして、信繁の義理の父になる大谷吉継(おおたによしつぐ)
登場します。

それでは、今回は大谷吉継についてシェアしていきたいと思います。

小見出し

【石田三成と共に歩んだ出世街道】

大谷吉継(片岡愛之助)信繁と似ていて、秀吉に仕えるまでの
前半生は、謎にみちています。

通説では、永禄2年(1559)大友家の遺臣・大谷盛治(もりはる)を父として
豊後(現在の大分県)に生まれたということになっています。

ただ、他にもいろんな説があって
詳しくは、わかっていません。

近年の研究成果によると、
吉継の生まれは、滋賀県伊香(いか)郡余呉(よご)町小谷(おおたに)というところが
有力な候補地だそうです。

下記の地図をご覧ください
琵琶湖の上にある余呉湖の少し上の赤丸のあたりです。

大谷吉継の出生地

天正元年(1573)、のちの天下人・豊臣秀吉【小日向文世】
まだ、羽柴秀吉と名乗りだしたころ、

浅井長政(あざいながまさ)が滅亡し、
その浅井が治めていた旧領北近江三郡を羽柴秀吉
大名として治めることになります。

そして、当時今浜と言われていた地を
『長浜』と改め、長浜城の城主として
一国一城のあるじとして、スタートします。

秀吉は、譜代の家臣がいないので
譜代(ふだい)というのは、代々、その家に仕える家臣のことで
秀吉は、もとは、百姓の出なので
そのような家臣がいないので、

この長浜時代に、有望な若者を積極的に登用しています。
石田三成大谷吉継もこの時期に
秀吉の家臣として、採用されたと
思われます。

人たらしと言われた秀吉。人を見る目は
確かなものがあったのでしょう。

★増田長盛(ましたながもり)
★脇坂安治(わきさかやすはる)
★片桐且元(かたぎりかつもと)【小林隆】
★長束正家(なつかまさいえ)
★小川祐忠(おがわすけただ)
★朽木元綱(くつきもとつな)
★田中吉政(たなかよしまさ)

などなど、多くの人材発掘をしています。

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時はすすみ、本能寺の変で主君・織田信長信忠
亡くなると

織田家中を真っ二つに割っての決戦
賤ヶ岳の戦い(天正11年【1583】)
が起こります。

この戦いには、賤ヶ岳の7本槍と言われた
◎福島正則(ふくしままさのり)【深水元基】
◎加藤清正(かとうきよまさ)【新井浩文】
◎加藤嘉明(かとうよしあき)
◎脇坂安治(わきさかやすはる)
◎平野長泰(ひらのながやす)【近藤芳正】
◎糟屋武則(かすやたけのり)
◎片桐且元(かたぎりかつもと)【小林隆】

秀吉の若手の武将達が大活躍。

もちろん、石田三成【山本耕史】大谷吉継も活躍しましたが
上記の7名ほどの武名を得ることが
出来なかったことが
その後に進む方向を決定づけます。

奉行職として
検地・訴訟・財政などの官僚的才能を発揮。

いくさが起きた時は
武器・兵糧を調達、それを輸送したりする
後方部隊の任務を担うことになり

華々しい戦場の舞台では、吉継の名前が
登場することは、なくなりました。

石田三成大谷吉継は、秀吉の天下統一
の裏方として出世していきます。

ただ、三成と違って、吉継は、武将として
の能力もおおいにあって、

生前の秀吉
『100万の大軍を預けて軍配させてみたい』
言ったとか!?

事実、関ケ原の戦いでは、大いに奮戦しています。

【大谷吉継の介錯人、湯浅五助】

まずは、こちらの動画をご覧くださいね!
『3分間でわかる関ケ原の戦い(改訂版)』

『3分間でわかる関ケ原の戦い(改訂版)』

動画をご覧になって
わかったと思うのですが、

松尾山に布陣する小早川秀秋15000の大軍が
東軍につくか、西軍につくかで
勝敗が大きく変わったのですが、

開戦前にすでに、黒田長政調略によって
西軍から東軍への寝返りを約束していました。


ここで、ワンポイントレッスンとして
調略と謀略の違いって、ご存じですか?

★調略とは
……相手を味方(あるいは中立者)にするための働きかけ

★謀略とは
……相手を陥れるためにする働きかけ


ですが、いざ合戦が始まると
西軍側の石田三成側の善戦が目立ち

松尾山から、傍観していた
小早川秀秋は、約束どうり
東軍につくよりも、西軍側に付いたほうが
と悩んだ経緯がうかがえます。

秀秋自身は、
慶長の役(1597)に秀吉の命令により
朝鮮半島へ渡海。しかし、主な活動は、城作りで
戦闘に参加したか、どうかは疑問です。

この関ケ原の戦いが
初めての大舞台でもあり、しかも
自分の動向で、豊臣政権の行方が決まるという
深い洞察が、若干19歳の若者にゆだねられるとは
なんとも、皮肉なもんですね。

すこし、小早川秀秋について
説明しますね。

この若者は、秀吉にとっては、数少ない近親者で
秀吉の妻・高台院(ねね)【鈴木京香】の兄・木下家定の5男として
近江国の長浜に誕生。

秀吉の甥になります。

もう一人の甥・豊臣秀次(秀吉の姉ともの長男)【新納慎也】
次に名が挙がっていた豊臣政権の継承者と
見られていました。

ただ、秀秋自身は、蹴鞠(けまり)や舞(まい)など
芸の道に才覚があったようで
あまり、政治や武将としての方面への
興味は、なかったのかもしれませんね。

ですが、天下人となった
秀吉の甥として、生まれ
別の道に進むことを
ゆるされなかったのが
災いしたのか、若い頃から

友人達と酒びたりの生活が
彼の乱行を起こす原因になったのかも
しれません。

秀吉の甥として順調に出世していく中で
かなり、派手な生活が身についてしまった
のか、保護者の立場にあった高台院(ねね)
秀秋には、かなり手を焼いたそうです。

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文禄3年(1594) 

豊臣政権の五大老の一人でもあった
小早川隆景の養子として、当時 羽柴秀俊(13歳)と名乗っていた
小早川秀秋が小早川家の跡を継ぐことになります。

この案件は、秀吉が毛利本家の毛利輝元に跡継ぎとなる子がいなかったので
自分の甥・羽柴秀俊を養子に送りこもうとしたところ、小早川隆景が猛反対し
毛利氏の血統を保持するために、秀吉と交渉し秀俊を小早川家の養子と迎え、
毛利本家を守ったと言われています。

あくまで、毛利家の将来のことを
考えた小早川隆景の配慮だったと思います。
毛利家の3本の矢の一人でもある
隆景の知恵者ぶりが垣間見れる逸話ですね。

この羽柴秀俊=小早川秀秋が誕生したときに
秀吉から、平岡頼勝稲葉正成の二人が秀秋付きの家老
として、つけられました。

平岡頼勝の正室と黒田長政は、従姉弟という関係だったので
黒田長政の調略もやりやすかったと思われます。

この小早川秀秋による
裏切りを予見して、いたのが
大谷吉継で、もし、裏切りがあった場合に備えて
精鋭600人と

✔赤座直保(600)
✔小川祐忠(2000)
✔朽木元綱(600)
✔脇坂安治(1000)

4人を用意していたのですが
不幸にも、上記の4人も秀秋と共に
裏切り、大谷吉継の部隊へ……

集中攻撃にされされ、さすがの
名将・大谷吉継もなすすべがなく
壊滅へと……。

吉継は、無念と思いつつも
家臣・湯浅五助(ゆあさごすけ)に対して
『我が醜い顔を敵にさらすな』と叫び、自害。

介錯を賜った五助は、その首を戦場から離れた場所に埋めました。
ちょうど、埋め終わったと思ったその時、

藤堂高虎の甥・藤堂高刑(とうどうたかのり)に埋めるところを
見られてしまい、五助は

『我が首を差し出す代わりに、主君の首のありかを見逃して欲しい』
頼みます。

そして、大谷吉継の家臣として勇猛な湯浅五助を討ち取った
甥の活躍を喜んだ藤堂高虎は、早速、徳川家康に報告。

家康は、あの勇猛な五助の首を若武者である高刑(たかのり)が
討ち取ったとは、にわかには、信じがたく

これは、主君の大谷吉継の首を守るために
討ち取られたに違いないとすぐに、きづき
高刑(たかのり)を問い詰めるも

五助と交わした約束を守るため
たとえ、家康様といえども
首の場所は、言えないと口を割らなかったそうな。

その姿に感じいった家康は、
藤堂高刑(とうどうたかのり)に自分の
槍と刀を与えたという逸話が残っています。

その後、高刑(たかのり)は、慶長20年(1615)
大坂夏の陣の八尾・若江の戦いで
長宗我部盛親の猛攻を受けて、戦死しています。

常に戦場にある以上
いつ、最後の時が来てもいいように
覚悟だけは、していなければ
いけない、厳しい時代。

ですが、主君の言いつけを見事に守った湯浅五助
五助の約束を守った藤堂高刑

両者の戦国武者としての礼儀に
いたく感動してしまいました。

大谷吉継の配下は、みな逃げ去ることなく
見事に散ってしまったわけですが
吉継の人望の厚さがそうさせたのでしょう。

後世の人々が魅入られるのは
桜のような、見事な散り際だったから
なのでしょう。

もちろん、私も大谷吉継に魅入られた
ひとりです(笑)

最後までお読みいただきありがとう
ございました。

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