ついに描かれることになる真田親子の犬伏の別れのシーン。ネット上ではすでにかなり話題になっているみたいですが、真田家の逸話の中でも特に有名な逸話なので、なおさらですね。


さて、どこから解説したものかと思案しつつも、そもそもなぜ真田家が敵味方に分かれて戦わなければならなかったのか?



あれだけ、真田家の人達は、結束力が堅かったのに、最後の最期で2つに割れることになるとは?


今回は、真田家のクライマックスともいえる犬伏(いぬぶし)の別れについて
シェアできたらと思います。

それでは、いきましょう!




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【犬伏の別れって何?】


犬伏の別れと言われてすぐにピンと来た方は、さすが真田愛あふれる歴史好きな方だと想像できますね。



わからない方は、本日9月4日放送の第35回『犬伏(いぬぶし)』を見ていただけたらと思いますが、すこしかいつまんでお話しさせていただきますと



慶長5年(1600)の3月、徳川家康は、会津の上杉景勝が謀反を企んでいるとの疑いをかけ、直ちに上洛せよ!と上洛を促すと、景勝は拒否。

このとき、上杉景勝の家老・直江兼続が家康に対して送った手紙が『直江状』として有名ですが、一説には、この手紙がニセの手紙ではないのか?とも言われています。
後の江戸幕府が、関ケ原の遠因になった会津征伐を正当化するために、手紙の内容を
修正したとも言われいます。
歴史は、勝者が作るとも言われますが、死人に口なしで、常に勝者は自分の都合のよいように歴史を書き換えるので、よくよく時代背景やその当時の人々の気持ちや感情を理解しないと誤った歴史を学ぶことになります。



結局、会津征伐を決意した家康は、豊臣譜代大名軍5万5000人、家康直轄軍3000人をそろえて出陣。会津への進軍を開始しました。



家康率いる上杉征伐軍は、下野(しもつけ)現在の栃木県・小山(おやま)に到着。



一方、家康と共に出陣した真田親子のほうは、会津に攻め入る前に領地である上田・沼田に一旦は戻り軍勢を整えて再び家康軍に合流するため、7月21日小山に近い犬伏でとりあえず一泊することになりました。



そこに、ある人物からの1通の書状が届けられました!!



そう家康から蟄居生活を強いられていた石田三成が、今こそ、家康を弾劾すべき好機到来とばかりに各地に密書を配布。その中の1通こそが、今まさに真田親子に届けられた手紙でした。



この手紙をもらった昌幸は、自分の陣所に信幸と信繁を呼び寄せ人払いをして今後の対応を協議するために密談。

その密談が行われた場所とはこちら

犬伏の別れの場所と密会が行われた新町薬師堂









[『直系子孫が明かす!真田幸村の真実』【宝島社】より引用]


佐野市犬伏新町にある『新町薬師堂』このお堂にこもって、真田家の今後の行方について長時間の密談が行われました。



【昌幸・信幸・信繁 三者三様の思惑】


さて、この『新町薬師堂』にこもっていったいどのような親子のやりとりがあったのか?真田家の存亡が、かかった決断だけに以前の真田丸のシーンのようなおみくじで
決めるというわけにも、ゆかなかったはずです。
《主家である武田家が滅んだのち、上杉・北条・織田の誰の傘下に入るのか》

おみくじ








幸いなことに逸話集として有名な『名将言行録』の真田幸村の項目に、このとき交わされたと思われる逸話が残っております。



その逸話の内容によりますと



昌幸『今しがた、石田三成が大坂で兵をおこしたので我ら上方、つまり西軍へ味方せよと書状が届いた。さて、どうしたものだろう?』



真っ先に信幸が言い放ちます。
信幸『東軍の家康に味方するべきだと』

信繁『いや、西軍に味方するべきだ』と反論。



早速、兄弟で真っ二つに意見が対立。

信幸『そういうことであるなら、父上と源二郎(信繁)は、西軍に味方されたら良い。わたくしは、あくまで、東軍の家康側に味方します。最悪、もし西軍側が負けるようなことになれば、西軍側に味方したものは、必ず殺されることでしょう。しかし、私が必ず、父上と源二郎の命だけは、助かるように尽力しましょう。』



信繁『兄上、心配ご無用です。もし、西軍の方が負けるような情勢ならば、父上とともに戦場の土になる覚悟があるので、いまさら兄上に助けていただくようなことは本望ではありません。そもそも、真田の第一次上田合戦(1585)の時、真っ先に援軍を出してくれたのは、上杉景勝殿。その後、徳川軍を撃退したとはいえ、ふたたび真田領を攻めようとしていた徳川家康と真田家のあいだに立って和平をもたらしてくれたのは、豊臣秀吉公です。この和平のおかげで真田家は命びろいし、真田の武名は全国にとどろきました。この豊臣家の御恩からも、西軍側に味方するべきです。それに、
真田家が滅ぶときが来たと感じたなら、潔く死ぬことこそが男子の本懐。自分の信念を曲げてまで、生き恥をさらし家の存続を考えるなど言語同断!』




この言葉を黙って聞いていた兄・信幸の表情はみるみるうちに険しくなり



信幸『源二郎!もう一度言ってみろ!!』



今にも信繁に斬りかかってきそうなぐらいに激怒。

信繁『待ってください!今、ここで兄上と喧嘩をして首を取られるのは、ご免こうむります。私は、ただ真田家にとって大恩ある豊臣家のために命をささげたいとの一心なのです。』



ここまで、兄弟の話を聞いていた父・昌幸は、二人の言い分にはそれぞれ納得いくものがあると二人の争いに割って入り、

昌幸『太閤殿下が亡くなって間もない今、幼い秀頼公をお守りできるのは徳川しかいないという信幸の判断は間違っておらぬ。しかし、わしは家康はどうも好かん。わしの意見は、信繁と同じだからわしと共に、引き返す。信幸は、自分の思うままに進め』



と、上記のようなやり取りがあったと記載されています。
【いくらかというか多少、私の想像も入っているので悪しからず】


この三人のやり取りをここまで見てきて感じたことは、父・昌幸にしろ、兄・信幸にしろ、そして信繁も自分の信じる人物に対する義に忠実に命をささげたんだなと感じました。



昌幸は表裏比興と評され、とても義に熱い武将には感じないかもしれませんが、武田信玄公を第二の父と慕い、最後まで武田家の為に働いたという事実からも、決して薄情な人物であったわけではなく、主家である武田家が滅んだ為に、生き残りをかけて次々と仕える主君を変えていかざるを得ない環境に置かれたためなので、決して義に欠けるわけではないと感じています。



それと、真田昌幸は武田信玄公在世時は、武藤喜兵衛という名で三方ヶ原の戦いにおいて徳川家康軍を完膚なきまでに叩きつぶした経験値があるので、家康恐れるに足らずという思いと、あと、天正壬午の乱(1582)の際、徳川家康の味方になる条件として沼田の領地を家康が保証しておきながら、その沼田領を突如として北条側に引き渡せという裏切り行為が、許せなかったと推測されます。



戦国一の策士と言われた昌幸は、自分が相手をだますことに対しては、何とも思わないくせに、相手が自分をだますという行為は、許せないという矛盾があります。
それだけ、自分の才能に自信がある人物であったということですかね。

やはり、敵に回すと厄介な人物ですね(笑)

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【信幸の人生を支えた賢夫人】


犬伏の別れにて、西軍側につくと決めた真田昌幸・信繁は、まっすぐに上田城へ帰路を取らずに途中にある兄・信幸が支配する沼田城に立ち寄ります。



これは、もしまんまと沼田城内に入れれば沼田を奪おうと昌幸が思案したと考えていたとも言われます。


そして、城門の前に現れた真田昌幸。開門されるかと思いきや甲冑をつけた勇壮な女丈夫が立ちはだかり、

強い女性









『夫の留守中に何用ぞ!たとえ舅様といえども当城に一歩たりとも入れるわけにはいきませね』と門前払い。



これには、訳があり、犬伏の別れのあと、兄・信幸は、沼田に急報でもし父や弟が城内に入れてくれと言っても決して入れるなとすでに知らせていたので、徳川四天王の一人でもある本多忠勝の娘・小松姫は、難なく入場拒否。



さすがは、あの本多忠勝の娘だけはあると感心した昌幸は、
入場をあきらめ、『久しぶりに孫の顔を見たくて寄ったのだ』と弁解すると
小松姫は、城外の寺にて、昌幸に孫との対面の場を作ったと言われています。



何とも、頼りがいのある奥さんですね。



しかし、この小松姫は、病気の為に元和6年(1620)、48歳で病死しています。
信幸は、我が家から太陽が消えたといって落胆したと言われいます。



さて、真田丸でのクライマックスともいえる犬伏の別れがどのように描かれるのか
かなり楽しみでもありますが、その後に待ち受ける厳しい現実をどう乗り越えていくのかも、見どころです。



関ヶ原の合戦シーンがあるのかどうかも楽しみですね。
それでは、今回はこの辺で終わりたいと思います。
最後まで、お読みいただきありがとうございました。


【最後に!】


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