こんばんは!今年もあともう少しで終わりですが、
みなさん、よいお年でしたか?
うるさい!お前には、関係ないといわれそうですが(笑)

NHKの大河ドラマ『真田丸』
が始まるということで、真田丸て何?

っていう人に少しでもお役に立ちたいと
記事を書きました。

今回の記事を読んでいただけると真田丸という言葉の意味
がわかります。

では、いきましょう!

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小見出し

【実際にどうな感じだったのか?】

真田丸とは、慶長19年(1614)11月、
秀頼率いる豊臣方と
家康を総大将とする徳川方がついに全面対決を迎えた
『大坂冬の陣』で

九度山を脱出し大坂城入りした
来年の大河の主人公『真田信繁』が築いた出城の名称です。

この真田丸がどのような構造をしていたのかが、
いま、大河がはじまろうとしているので、
近年特に注目を浴びているのですが、

真田丸の戦いでたくさんの戦死者を出した家康が
すぐに大坂方と講和を結び

そのあと、みなさんもご存じのとおり
大坂城の総構えの外堀と内堀も埋め立てられたときに

真田信繁が作った『真田丸』も跡形もなく取り壊されて
しまったので、後世の人々は、想像するしかないわけですが

地形の構造は、そんなにたやすく変えられないので
近年、発掘調査がされております。

ただし、まったく手掛かりがないわけでは、なく近年注目されている一枚の絵図があります。
それが、浅野家(あさのけ)文庫の『諸国古城の図』(しょこくこじょうのず)に
描かれている【摂津 真田丸】という絵図になります。

こちらがその絵図です↓

真田丸(広島市立中央図書館所蔵)

そして大坂冬の陣の陣立て図がこちら↓

大坂冬の陣

当初は、
この真田丸は規模の小さなものと考えられていましたが
近年の調査研究で大坂城の総構えのすぐ外に築かれたわけではなく

総構えのまえの谷を隔てた
ところの少し険しい丘陵地帯をうまく利用して
作られた決死の出城とわかってきました。

想像図がこちらです↓
再現CG 真田丸
(CG制作:成瀬京司・監修:千田嘉博)闘将 真田一族 洋泉社MOOKより引用

みなさん、どう感じましたか?

このように総構えの外にポツンと出城があれば、
敵の集中砲火を浴びますよね。

つまり、わざと目立つように作ったと思われます。
そして、これには、ワケがあるのです。

【真田丸が作られた経緯とは!?】

この秀吉が築いた難攻不落の大坂城にも弱点がありました。
東西北の三方は川と川から引き込んだ水堀が寄手(よせて)
の接近を阻止しているが
唯一南だけは、陸続きで空堀(からぼり)しかない。

とここまでは、以前の説で

実は、実際は、
総構えの西側のほうが弱点というのが新説です。

なので、真田信繁は、
できるだけ敵の目を引き付けるために、
城の南東部の丘陵をうまく利用して出城を築きました。

わざとつくったというのが最近の見たてです。

じつは、後藤又兵衛も冬の陣の時
真田丸の作られた場所に砦を築こうと
目を付けていたのですが、
真田信繁と喧嘩になってしまい
一触即発の状態になったのですが、
これを危惧(きぐ)した明石全登(あかしたけのり)や大野治長(おおのはるなが)らが
仲裁に入り、豊臣秀頼が裁定を下して事なきを得たという。

これは、後藤又兵衛や明石全登らが評議に加われるように
真田信繁が仕組んだ謀(はかりごと)かもしれないと言われています。

それにしても、想像図のCGにもあるとおり、
総構えの外に飛び出しているので、
徳川方としては、
放っておくわけにも、いかないだろうし、
信繁も巧妙な作戦を実行しています。

その作戦とは
真田丸の南にある篠山というところから
前田利常隊に向かって
挑発するように、鉄砲を浴びせていたので
その挑発に乗ってしまい

12月4日、前田隊が篠山に夜襲を仕掛けると
もぬけの殻(から)で、
前田隊はそのまま、真田丸に向かって
総攻撃を開始してしまいました。

当初家康は、前田隊に真田丸の前に
塹壕(ざんごう)や土塁(どるい)を築いて
様子を見るように命令を下していたのですが

真田信繁の挑発行為にまんまとはまったわけです。
そして、前田隊が城壁に取り付き
鉄砲や矢の射程圏内に入るまで
じっくりと引き寄せ

その後集中砲火を浴びせて前田隊に大打撃を与えています。
そして、このとき
大坂城内で火薬桶がたまたま爆発を起こし
それを内応、つまり大坂城内の裏切りが
発生したと勘違いした

松平忠直と井伊直孝がそれぞれ
谷町口と八丁目口に攻撃を開始。

しかし、勘違いと気づいた時には
時すでに遅し、後方から味方の大群が
押し寄せた為に引くこともできず

大混乱。

大坂方の長宗我部盛親らも応戦。
そして、今がチャンスと見た
真田信繁が門を開いて
500人の兵を出撃させ、
徳川方に甚大な被害を与えました。

これが真田丸の戦いで
徳川方は、松平忠直隊480騎、前田隊が300騎が戦死。
雑兵(ぞうひょう)の死は数しれず。

あまりの被害に
さすがの家康も撤退命令を下さざるを得なかった。

だが、百戦練磨の家康。
すぐに大坂方に講和を申し込み、
12月20日には、和平が成立。

もし、このまま戦が長引けば
この寒い冬空のもと、徳川方が20万もの
兵を維持するのは、たいへんだったと思われ、
このまま、膠着状態が続いていたら、
どうなったかわからないですが、
このときの
真田信繁の活躍で一躍真田の武名が上がったことだけは確かです。

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しかし、実際は一冬(ひとふゆ)を越して
1615年、夏。再び開戦。

しかし、このときは、大坂城は、裸城。
あとは、みなさんご存じの結果どうりです。

5月7日の天王寺口の戦いであと一歩のところまで、
徳川家康を追い込んだ
のですが、ついに真田信繁は力尽きてしまいます。

安居天神で休息をとっていたところに
松平忠直隊の鉄砲組、西尾仁左衛門(宗次)に見つかり、
疲れはてていた信繁は、
『自分の首を獲って手柄にされよ』と言って
抵抗しなかったそうです。
追記
(『英雄たちの選択』{大坂の陣400年 真田幸村・決戦へのジレンマ}という番組では
信繁が最後まで、抵抗して最後は討ち取られたという資料があると紹介されています)

そして、後藤又兵衛も前日の道明寺の戦いで
壮絶な討ち死にを遂げました。
真田丸のキャストでは、後藤又兵衛は誰が演じるのか?

後藤又兵衛も武士として
最後に人花を咲かせて散りたいと思っていたふしがあるので、
【こちらの動画は又兵衛桜の動画です】
又兵衛桜の動画

真田信繁とは馬があったように感じます。

ただ、信繁は最後まで、徳川家康を倒すという
目的に向かって、あきらめていなかったはずです。

そこが後世にまで、名を残せたワケではないのかなと
感じています。
大きな力に屈するわけではなく
自分を大坂城に呼んでくれた秀頼の為に
最後まで大坂方として奮戦する姿に
感動を覚えます。

かっこいい生き方ですね。
ついに真田丸の短い予告が放送された!?

真田丸の正確な場所がついに判明!?
詳しくはこちら
真田丸の場所は、どこにあったのか?ヒントは古地図に!