ガラシャ=ラテン語で『神の恵み』という意味だそうですが、このガラシャは、
関ヶ原の戦い時、大坂玉造の細川邸から人質として大坂城内へ連れ去られるのを拒否して、みずから自害するという悲劇の主人公になります。
夫・細川忠興(ほそかわただおき)【東軍側】に迷惑をかけまいとしてみずから死を選んだ悲劇の女性ととらえる向きもありますが、はたしてそうだったのでしょうか?
この果断な決断を下すに至るには、それなりのワケがあったはずで、今回は
細川ガラシャ又は、たま(玉)と呼ばれた女性にスポットを浴びせたいと思います。
それでは、いきましょう!
小見出し
【父は織田信長を倒した明智光秀】
まずは、細川ガラシャの生い立ちからみていきたいのですが、父は戦国の英雄・織田信長を自害に追い込んだ明智光秀。光秀の三女として永禄6年【1563】に生まれています。
すでにこの光秀の娘に生まれたという時点だけでも、かなり波乱の人生を思い浮かべてしまうのですが、父・明智光秀は、下克上のこの戦国時代をうまく乗り切った才人でした。光秀は、織田信長が生まれた尾張の隣国・美濃の守護土岐氏の一族の出身で、その土岐氏に変わり美濃の当主となった斎藤道三に仕えるも道三が息子・義龍に敗れたのち、越前の朝倉義景を頼り約10年間仕えるも、なかなか日の目をみない、いち家来という身分でした。
そんな、光秀の人生を一変したのが、朝倉家を頼ってきてのちに室町幕府第15代将軍になる義昭とそして義昭に仕えていた細川藤孝との出会いでした。
幕府再興をはかる義昭は、有力大名に援助を求めてさまよっていたわけですが、当時、実力大名であった朝倉家を頼ったわけですが、当主の義景は一向に上洛をしようとは、せず、やきもきしていました。なので、幕臣の細川藤孝に命じて尾張の国の新興勢力であった織田信長に援助を依頼するわけですが、その細川藤孝と一緒に織田信長と義昭の取次をしたのが、明智光秀でありました。
明智光秀の機転の利く対応にすぐに気に入った織田信長は、細川藤孝と共に信長に仕える家臣として、重用されていくことになります。
織田信長は、家臣の出自にこだわらず、有能とみればどんどん取り立てていくいわゆる実力主義の考えの持ち主で、明智光秀は、一介の浪人からどんどん出世街道をばく進していくのですが、信長の天下統一事業のよき理解者であったはずなのですが……。
【明智光秀にとっては生命線であった細川家】
織田信長の重臣として、軍団長の位置まで登りつめた光秀。そんな光秀と共に信長に仕えた細川藤孝【のちに幽斎】は、光秀にとってよき師匠でもあり友人でもあったのです。
この細川藤孝は、はじめ室町幕府13代将軍・足利義輝(よしてる)に仕え義輝死後は、義輝の弟であった義昭に仕え、その後、明智光秀と共に、織田信長に鞍替えして仕えることになるのですが、藤孝は、剣術から和歌・茶道・連歌などの文芸とまさに文武両道を体現した人物でした。特に剣術は、鹿島新当流(かしましんとうりゅう)を開いた剣士でもある塚原卜伝に習ったとか。
かつて藤孝が主君として仕えた足利義輝も塚原卜伝の指導を受けた直弟子だとされているので、主君と一緒に教えを受けたと推測されます。
ここで、一息ワンブレイク。
細川藤孝の逸話として、ある時、京都の路上を歩いているときに、突如として突進してきた暴れ牛の角をつかみ投げ飛ばしたという逸話が残っているぐらいに、たいへん腕力が強かったそうです。
【一子相伝・古今伝授?】
また、藤孝は、三条西家に代々伝わる『古今伝授(こきんでんじゅ)』を師匠の三条西 実枝(さんじょうにし さねき)から伝授されています。
『古今伝授(こきんでんじゅ)』って何?
って思ったかた、当然だと思います。
古今伝授とは、天皇や上皇の命により集められた歌集である古今和歌集の解釈を、秘伝として三条西家が代々一子相伝して伝えてきたのですが、三条西 実枝(さんじょうにし さねき)は、実の子が幼かったため、弟子の細川幽斎に必ず、三条西家の子孫に伝授を行うという約束のもとに、伝授されたといういきさつがありました。
なので、細川藤孝が『古今伝授』を誰にも伝授しないでもし、亡くなれば元も子もないので、細川藤孝が慶長5年(1600)の田辺城の戦いで東軍側として籠城し、細川藤孝が500の兵だったのに対し、攻める西軍側は、1万5000と大軍。
7月19日から始まった攻城戦は、圧倒的な兵力差もありすぐに落城するかに思われたのですが、細川藤孝を始め討ち死にを覚悟した城兵に苦戦し、また、攻める西軍側には、細川藤孝を歌道の師匠として仰いでいる弟子たちがいたので、攻撃側の戦意はどことなく停滞気味ということもあって、なかなか落城しませんでした。
そして、公家を始めとする朝廷側は、『古今伝授』の唯一の伝承者である藤孝の死を恐れ、当時の天皇・後陽成天皇の勅令が東西両軍に伝わり、藤孝は仕方なく講和をするという条件で開城を決定。
田辺城を敵側に明け渡したのが、9月13日ということで約2ヶ月近く持ちこたえることによって西軍側の1万5000の大軍を本戦の関ケ原に間に合わせなかったという功績をつくりました。
【ベストカップル!?】
すこし、話がそれすぎましたが、そんな文武両道の細川藤孝と友人関係にあった明智光秀が、さらに、結びつきを強めるために、ある婚儀の話が、ススメられました。
とその前に余話として
明智光秀には、妻・煕子(ひろこ)がいたのですが、天文14年(1545)に婚約したそうです。光秀が、まだ18歳ぐらいの時で、妻・煕子がはっきりとはわからないのですが、たぶん、12歳ぐらいでしょうか。
その婚約後、煕子が疱瘡(ほうそう)、つまり天然痘(てんねんとう)にかかり
【天然痘は、当時は不治の病で致死率40%と恐ろしい病気でもし助かってもあばたとよばれる傷痕が残ってしまい悪魔の病気として恐れられた】
美しかった顔に傷痕が残ったので、煕子の父親がどうしてもこの縁談を壊したくなかったので、煕子とそっくりであった妹を身代わりとして光秀のもとにやったのですが、光秀はすぐに妹であることを見破り、煕子を妻として迎えたそうです。
なんとも、いい逸話ですね(笑)
そこまでして、もらわれた煕子は、当時浪人中で貧しかった光秀の家計を助けるために懸命に努力したことでしょう。それがわかるのが次の逸話で
ある時、光秀が連歌会を開催しようとおもったのですが、お金がなかったのであきらめようとしたところ、妻・煕子が大切にしていた自分の黒髪を売ってお金を用立てたという逸話が残っています。
そんな、仲睦まじい明智光秀と妻・煕子との間には3男4女の合計7人も子供をもうけましたが、そんな明智家の3女として永禄6年(1563)に生まれたのが、玉(たま)のちのガラシャです。
玉(たま)の名のとおり、とても利発でかわいらしい女性だったのではないのかなと想像されます。いずれ、大河ドラマでも取り上げて欲しい女性でもありますが、
この玉(たま)と結ばれたのが、細川藤孝の嫡男でもある細川忠興(ただおき)になります。忠興も、玉と同じく、永禄6年(1563)に生まれていますので、二人は同い年ということになりますね(笑)
玉(たま)と細川忠興の婚儀を取り持ったのが織田信長で、天正7年(1579)。
2人とも17歳。とても多感な時期でもありますが、その後の忠興の行動をみていると、かなり一方的に好きになったのは、忠興のほうではないのかなと推測されます。
【大事件発生!!】
そんな明智家と細川家の政略結婚でもあった二人の関係を大きく揺るがす事件が
発生してしまいました。
天正10年(1582)、なんと玉(たま)の父、明智光秀があろうことか、主君でもある織田信長を本能寺にて急襲するという謀反を起こします。完全に不意を突かれた信長は、『敵襲は誰ぞ!!』と配下の部下に問いただし、それが重臣・明智光秀だと聞かされて
『是非に及ばず』。つまり、仕方がないとすぐに覚悟を決め、本能寺の炎の中に消えていきました。
『人間50年下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり』信長が愛した敦盛の幸若舞。
信長は、人間の一生なんてものは、はかないものだということをわかったいたからこそ、まるで生きいそぐように、しかも、ときには大胆不敵な行動を取ったのも常に人間に与えられている時間の短さにきずいていたのかもしれませんね。
なんて、言ってる場合じゃなかったですね。
謀反を成功させた明智光秀、まず味方にしようと頼ったのが娘・玉を嫁がせて親戚でもある細川藤孝・忠興父子。しかし、謀反成功の知らせが届いた藤孝は、光秀の援軍要請を無視。剃髪して、名を幽斎とし、家督も忠興に譲り、隠居してしまいました。
これには、あてにしていただけに光秀のショックは大きかったと思われます。
その後、羽柴秀吉の中国大返しによって本能寺の変が発生した6月2日からわずか11日後の摂津国と山城国の境にある山崎にて戦いが起こり、あっけなく明智光秀は敗れてしまいます。
そして、細川家の家督を相続した玉の夫、細川忠興は、玉をどうしたのか?
通常であれば、この場合、妻・玉を離縁し実家の明智家に送り返すのが戦国の習いなのですが、玉を愛していた忠興は、離縁するのではなく、自分の領国でもある丹後国の味土野【現在の京丹後市弥栄町】に幽閉してしまいました。
この幽閉生活は、天正12年(1584)まで続きます。こんな玉にとっては一転して地獄のような生活を突如として余儀なくされるのですが、そんな彼女の心の支えになってくれたのが、父・明智光秀が細川家に嫁ぐときに、使わしてくれた侍女・小侍従という名の女性や細川家からつけられた侍女・清原いと【キリシタン名・マリア】などの侍女たちでした。
【キリシタンとして】
信長の死後、覇権を握った羽柴秀吉の許しを得たこともありようやく幽閉生活が終わったわけですが、今度は、大坂の細川屋敷に移動させられ、ここでは、なんと忠興の家臣2人に絶えず監視させるという、生活がまっていました。
確かに、秀吉にとっても主君でもあった織田信長を死に追いやった謀反人の娘というレッテルを貼られたからこその、このような生活になるのかもしれませんが、自分の正室でもある玉(たま)または、玉子(たまこ)に対してこれほどの仕打ちをするのは、すこし理解しがたいですよね。
とにかく、細川屋敷から一歩も外にでることも許さず、しかも監視付きで、逐一どのような行動をしていたか、報告させるという、これってもう完全に監禁に近い、現代だったら間違いなく犯罪ですね(笑)
しかし、こんな監視生活の中でも忠興と3男2女をもうけているのですが玉にとっては、どうだったのか?玉の心の内がどのようなものだったのかは、わかりませんが、こんな環境を作りだした、父や夫、忠興を恨んだかもしれませんね。
そんな厳しい生活の中で、唯一外出できたのが、天正15年(1587)玉、あくまで予想ですが、たぶん30歳前後だと思われますが、夫・忠興が九州征伐へと出向いていた時期に、お彼岸の時期だというのを利用して侍女達に紛れて教会にいったそうです。
そこで、教会の修道女として仕える日本人女性にあれこれと質問をしたそうですが、その際の会話後、この修道女は、『これほど聡明でかつ頭の回転の速い女性をみたことがない』と感想談を残しています。
この唯一の外出もすぐに細川屋敷の人間に気づかれ教会に籠の向かいがきて戻らざるを得なくなってしまいました。
ふたたび、外出することは困難だと悟った玉は、洗礼をうけた侍女・清原マリアから洗礼を受けて名をガラシャと授かることになる。
そして、この時期、細川ガラシャは、夫・細川忠興との離婚を真剣に考えるが、バテレン追放令が秀吉によって出された時期でもあり、タイミングが悪いと判断しとりあえず、離婚は先延ばしに決定。
とりあえず、キリシタンとなることによって心の平穏を得られたのが救いなのかもしれません。
【秀吉子飼いの猛将・7人にはいる細川忠興】
玉の旦那でもある細川忠興は、父・細川幽斎の嫡男として文武両道をこなす武人で、天正5年(1577)3月、15歳で信長の紀州征伐で初陣をはたすと、織田信長の嫡男・信忠から忠の名をいただき、忠興と名乗ることに。
信長が亡くなる天正10年まで、父・細川藤孝と共に信長の為に戦い、信長亡きのちは、岳父・明智光秀を討ち取った羽柴秀吉の配下として、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いに参加。翌年、秀吉から羽柴性を与えられる猛将として存在感を示す。
秀吉子飼いの猛将と言えば、
1.福島正則【1561~1624】享年63
2.加藤清正【1562~1611】享年50
3・池田輝政【1565~1613】享年49
4.浅野幸長【1576~1613】享年38
5.加藤嘉明【1563~1631】享年69
6.黒田長政【1568~1623】享年56
7.細川忠興【1563~1646】享年84
他に蜂須賀家政と藤堂高虎が入ったりする場合もあるのですが、生まれ年は、それぞれ違えど、細川忠興の寿命の長さが、凄いですね。
武人としても優れていた忠興ですが、激しい気性の持ち主で、戦国武将の中でも特に気の短い人物として言われています。
例えば、関ケ原の戦い時、石田三成の人質になるのを拒否し、大坂の細川屋敷で自害したガラシャ。その屋敷には、忠興の嫡男である細川忠隆の正室・千世(ちよ)も一緒にいたのですが、この千世は、前田利家の7女で、同じ前田利家の4女として羽柴秀吉の養女となっていた豪姫は、宇喜多秀家に嫁いでいたのですが、その千世にとっては姉でもある豪姫の屋敷がたまたま隣だったのでうまく姉を頼って難を逃れたのですが、
ガラシャを失った悲しみで怒り心頭の忠興が、嫡男・忠隆に対して、千世だけが無事に逃れたことに許せず、千世を離縁して前田家へ送り返せと無理難題を押し付けると、嫡男・忠隆は、父・忠興の命に従わないばかりか、彼女をかばったため忠興は、嫡男・忠隆を廃嫡し、3男である忠利を次の当主として抜擢。
2男坊であった細川興秋は、自分をないがしろにして3男である忠利が嫡子になったことが、相当不満だったらしく、細川家から逃げ出してその後、大坂の陣が始まった時に、大坂城に入城し、華々しく大坂側として参戦。奮戦したが、結局、大坂側の敗北になり、その後、身柄を確保。
徳川家康は、細川興秋の赦免を許したが、忠興が許さず、自害させてしまいました。自分の息子といえども、この冷徹な仕置きに細川忠興の気性の激しさを感じますが、晩年には、廃嫡した嫡男の忠隆を許しており、丸くなったと思われます。
忠興は、一介の武人だけではなく千利休に弟子入りし、利休七哲の一人に数えられるほどに、利休に気に入られていて、文化人としての面も持ち合わせていた稀有な人物でもありました。
細川ガラシャと細川忠興との間に生まれた3男忠利が、肥後熊本初代藩主として名君として君臨し、晩年の宮本武蔵を客人として迎えたのもこの忠利でした。
このガラシャの血を受け継ぐ忠利の家系は、肥後熊本藩7代当主・細川治年(はるとし)までで、治年の長男・年和(としかず)を始め、男子がみな早死にしてしまったため、残念ながら、血脈は途絶えてしまいました。
【聡明で美しかった細川ガラシャ役は?】
真田丸では、そんな悲劇のヒロインでもある細川ガラシャの役どころを、お色気たっぷりの『橋本マナミ』さんが演じることになりました。
橋本マナミさん曰く
『真田丸ファンの方、視聴者の方にガラシャの想いが伝わるように、精一杯楽しんで演じて参ります』と心強いコメントを述べられているので、ぜひ真田丸を見てくださいね。
たいへん、長くなりましたが、最後までお付き合いしていただいたかたに感謝の気持ちを述べながら、終わりたいと思います。
ではでは。
【最後に!】
細川ガラシャの父・明智光秀についてはこちらの記事をご覧くださいね!