真田丸の大坂編が始まって
有名な武将・加藤清正福島正則が登場。



そして、石田三成・大谷吉継・片桐且元
その後の秀吉政権の重要人物がずらり。



GW期間中に真田丸外伝として
石田三成役の山本耕史さんと
加藤清正役の新井浩文さんの対談の放送が
あったのですが、



当初は石田三成と加藤清正は、絶対に仲がよかったはずだと
おっしゃっていたのが、すごく印象に残っています。



加藤清正や福島正則は秀吉の親戚という、つてを頼って
秀吉に仕えることになるわけですが



石田三成は、秀吉が鷹狩の帰りがけの途上、
喉(のど)が乾いたので立ち寄った寺に
茶を所望。



奉公していた若き三成から、
受けた3献の茶の逸話で有名ですが
気に入ったので、
すぐに長浜城へ連れ帰ったそうな。



そんな二人が、秀吉亡き後、抜き差しならない関係になるとは?
今回は加藤清正と石田三成の関係と
言いたいのですが、



清正のライバルは、実は小西行長(こにしゆきなが)という
キリシタン大名なんですが、この二人の関係を
シェアしていきたいと思います。

それでは、いきましょう!



【肥後の国を分け合った小西行長と加藤清正】


小西行長は、永禄元年(1558)
和泉国・堺の商人、小西隆佐の次男として京都で生まれる。
父・兄と共に、熱心なカトリック信者で、
当時はキリシタンと言われていました。
父が堺の商人ということもあって
裕福な幼少期を過ごしたと思われます。


ザビエルの画像





秀吉に仕えたのは、はっきりしませんが
当時の史料から類推するに、秀吉が三木合戦(1578~1580)と言われる
戦闘をしていた前後では、ないのかなと感じています。



天正13年(1585)の秀吉による紀州攻めでは水軍を率いて参陣。
その後も、秀吉の経済・流通政策を最もよく理解していた
官僚として、活躍。石田三成とも同じ官僚として
共に秀吉政権を支えることに。



かたや加藤清正は、
永禄5年(1562)尾張中村、現在の名古屋に生まれる。
清正がわずか3歳のころ、刀鍛冶をしていた父・加藤清忠が死去。



その後、母子家庭となり生活は困窮。
だが、日蓮宗への信仰が母子の心の支えになった。
そして、清正が12歳のとき、
清正の母は、秀吉の生母である『なか』のちの大政所の従姉妹の
つてを頼って、近江長浜城主となったばかりの秀吉のもとに。

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秀吉に面会するなり、
清正母子に5石の扶持(ふち)、
現代の給料に換算すると
1石=1両 
1両は約10万円ぐらいだそうで
その5倍、つまり月収50万ということに!!



それまでの赤貧生活から一変。
破格の待遇をうけた清正は、
終生、秀吉への感謝と尊敬を忘れませんでした。



ここまで、二人の生い立ちをすこし
みてきましたが、
小西行長は、裕福な家庭で生まれ、信仰はカトリック教徒。
加藤清正は、貧乏な家庭で生まれ、新興は日蓮宗徒。




まったく正反対の生い立ちを過ごして
秀吉に仕える二人に転機が訪れます。



秀吉の九州平定後
肥後(現在の熊本県)の国主に抜擢されていた
佐々成政が、国人衆をうまくまとめられず
一揆が勃発。

この一揆に関しては
詳しくはこちら

真田丸のキャストで熊本城や土台を作った加藤清正



佐々成政は、手ごわい一揆軍を治めることができずに
秀吉に応援要請。
なんとか一揆軍を征伐に成功するも……。
秀吉の期待を裏切った為、処刑されることに。



そして天正16年(1588)肥後国人一揆に功責のあった
加藤清正と小西行長が肥後を治めることになります。

しかし、この二人は水と油でした。


【秀吉の思惑とそれぞれの武将の立ち位置が明暗を分ける】


肥後入りした加藤清正
肥後北半国19万5000石を与えられ、
熊本城を居城としました。



そして肥後南半国約20万石を与えらた
小西行長は、鎌倉時代末期に宇土氏によって築かれた
宇土古城の東に新たな宇土城を築城し居城としました。



しかし、この宇土城普請に早速問題が発生。
この城普請に従わなかった天草五人衆との一揆が勃発。

九州地方のイラスト





前任者の佐々成政の二の舞はご免だと感じた
加藤清正が、手助けの為手勢をつれて加勢。



清正と共に、小西行長は一揆軍をすばやく殲滅しました。
しかし、天草と言えば、キリシタンが多くいる地でもあり
自信も熱心なカトリック教徒であった行長は、



一揆勃発直後は、何とか
話し合いで解決できないかと模索していたところ
清正が、行長の了解を得ないまま
強引に力ずくで征伐してしまったことに
かなり不満があったと思われます。



結果的には、一揆を征伐できたのですが
その後、両者の仲は険悪な関係に……。





かたや秀吉は、天正18年(1590)
2月小田原征伐
7月奥州仕置きと
天下統一を果たし
いよいよ、国外へとその矛先を向けていきます。



しかし、なぜ、秀吉は天下統一を果たしてもなお
朝鮮出兵を開始したのか?



現代に住む私たちから見れば、日本全国統一をすれば
それで十分だと考えるのが、普通で明らかに朝鮮半島にまで
領土を拡張するのは、無謀だと感じますが

日本地図(地域別)




当時の日本は、応仁の乱以来、
戦国時代が100年以上続いてきたわけで
まだまだ、下克上の雰囲気が色濃く漂う世間。



当時の人々の多くが
領地を目指して、
国外に出ていくことに賛成というのが多数派であったと
作家の井沢元彦さんが、推理されています。



それと、秀吉は信長が生前、
宣教師ルイス・フロイス
『わしが、天下を統一をして絶対君主になった後は、
一大艦隊を率いて中国を武力で征服し、
諸国を自分の子供たちに分け与える』と話していたのを
聞いて、
その信長の構想を自分なりに実現しようとしたふしがあります。



そして、早くから中国、当時の明を征服しようと
企んでいた秀吉は、その先駆けとして
抜擢を考えていたのが、先のふたり
加藤清正と小西行長でした。

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いわゆる文禄・慶長の役(1592~1598)と言われる
この戦役は、結果的には、秀吉の死によって
失敗に終わるわけですが、
この戦役の一番隊が小西行長等・兵18700
二番隊加藤清正等・兵22800
その他、の軍勢を含めると約16万人に近い軍団を派遣。



戦役当初は、朝鮮側の李氏朝鮮王朝の油断もあり
破竹の勢いで攻めのぼるも
朝鮮国王・宣祖が明の援軍を頼んで戦闘が開始されると
戦線の動きは止まります。

秀吉の朝鮮出兵当時の朝鮮の各地の呼び名




そして、李氏朝鮮側の水軍の名将・李舜臣(イスンシン)が大活躍して
日本水軍が撃破されたこともあり、兵糧不足に陥り、
大苦戦。



ただ一人快進撃をしたのは、加藤清正だけで
他の戦線は、膠着(こうちゃく)状態。



小西行長も平壌(ぴょんやん)まで攻めのぼったものの
このまま、戦争の継続は、無理とみて
明側の講和担当者・沈惟敬(しんいけい)と交渉を模索。



このとき、石田三成と共に、講和の実現を早めるために沈惟敬(しんいけい)と共謀し
秀吉には、明が降伏すると偽り、明には秀吉が降伏すると
うその報告をして、講和を結ぼうと画策。



これを伝えきいた清正は、大反対!
秀吉の命令を無視した和睦を阻止するために
明側の交渉役ではなく、
李氏朝鮮側の『義僧兵』の総指揮官であった
惟政【いせい、ユ・ジョン】又は「松雲大師」と交渉。


ちなみに、『義僧兵』というのは、お坊さんのことで
一般の義兵とは違い、数こそ少なかったものの
郷土防衛軍とては、かなり強かったとか…。



座禅を組むお坊さん




清正は、この惟政【いせい、ユ・ジョン】に対して
『李氏朝鮮側では、あなただけが偽りがなく、他の人は信用できない』と言って
真摯に講和交渉を開始。
講和自身は成功しませんでしたが
この交渉によって
小西行長・石田三成・沈惟敬(しんいけい)の三者の共謀が発覚し
これを知った秀吉は、大激怒!



行長に対して自害を命じますが、秀吉の政治顧問であった
西笑承兌(さいしょうじょうたい)や前田利家、淀殿らのとりなしによって
なんとか一命は回避できました。



危うく命を落としかけた小西行長は、
慶長2年(1597)の慶長の役では、明・朝鮮軍側に清正の上陸予想地点を
ひそかに知らせ、清正を戦死させようと企むが
敵の名将・李舜臣(イスンシン)は、これは逆に罠ではないかと疑って
出撃しませんでした。



このように、文禄・慶長の役は、
秀吉政権の官僚側の石田三成・小西行長と
実際に戦闘を担当した武断派・代表の加藤清正との対立を生んだだけで
こののち、秀吉が亡くなると
官僚派VS武断派の抗争の火種が
関ケ原へと続いていきます。


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