真田丸の以前の放送で、石田三成(山本耕史)の屋敷を訪れ
石田三成に、主君の豊臣秀吉が関白になったことを嘆く
人物こそ、秀吉政権を支えた加藤清正(新井浩文)

このころは、まだ、石田三成とも仲が悪かったというよりかは
逆に愚痴をこぼせるほど、仲が良かったんですね。

加藤清正は、名城・熊本城を作った人物でもあり
かつ、熊本発展の土台を作った恩人として
今も、「清正公(せいしょこ)さん」として
人気があります。

今回は、加藤清正なる人物をシェアしていきたいと
思います。

それでは、いきましょう!

【肥後の発展の礎を築いた清正公】

加藤清正は、永禄5年(1562)
尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれる。
母が、羽柴秀吉の生母である大政所の従姉妹(いとこ)ということから
天正元年(1573)、近江長浜城主となったばかりの
秀吉に小姓として仕えることに。

秀吉にとっては、数少ない身内というか縁戚になるので
秀吉にとても可愛がられたそうです。

清正も秀吉の期待に応えるように秀吉が亡くなるまで
精一杯仕えます。

そして、天正11年(1583)、加藤清正22歳のとき
本能寺で織田信長が亡くなったあとの
織田政権の後継者争いで争った柴田勝家との戦い

いわゆる賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで
敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ
賤ヶ岳の七本槍の一人として名を挙げました。

その後、順調に豊臣政権の天下統一事業が
進むと同時に清正もどんどん出世していきます。

天正16年(1588)には、ついに肥後北半分に当たる
19万5000石の大名になります。

加藤清正27歳。この若さで
一国一城の主として、現在の熊本県にあたる
肥後を収めることになります。

肥後は、守護の菊池氏の衰退後
国人つまり、真田丸で言えば、国衆と言われる
室賀氏や海野氏といわれる土着の武士みたいな人達が
割拠する状態でした。

つまり、戦国大名と言われるような大勢力が
生まれなかったということですね。

そんな国人衆が52人も割拠していたのが
肥後でした。

なので、肥後を収めるのはたいへん厄介な
場所であったといえるでしょう。
(熊本県在住のかたには、申し訳ないですが、あくまで歴史的に見て)

事実、豊臣秀吉が九州平定を終えて
肥後を任されたのは、佐々成政(さっさなりまさ)でした。

しかし、これが悲劇を生むことに……。

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佐々成政は、織田信長の馬廻(うままわり)つまり
今で言う、SPみたいなものでしょうか。

常に信長の身辺の側近くにいて、いざという時には
信長の代わりに盾となって身を守る必要性から

武芸に秀でたものが選ばれます。

その信長の親衛隊の中でも
特に優れた若者が集まる組織がありました。

それが
『黒母衣衆(くろほろしゅう)』と『赤母衣衆(あかほろしゅう)』

この黒母衣衆の代表格といえるのが
佐々成政で、のちのち出世をして

柴田勝家の目付役として
一つの軍団を統率して派遣されています。

ちなみに、赤母衣衆には、
槍の又左と言われた前田利家がいました。

天正10年(1582)本能寺の変が発生した当時、
佐々成政【織田信長の北陸方面軍の一人として】は、
上杉景勝の越中の最後の拠点であった
魚津城の戦いを終えたばかりで

下記の地図で越中の場所を確認してくださいね
(現在の富山県)↓

旧国名日本地図

上杉方への備えの為
越中を離れるわけにいかず
明智光秀を討ち果たす余裕はなかったのです。

その後、清州会議にて
柴田勝家羽柴秀吉の織田家の実権争いが
起こると

当然、北陸方面軍の軍団長であった柴田勝家側について
秀吉に抵抗します。

しかし、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで
柴田勝家が滅びると

一旦は秀吉につくと見せかけて
翌天正12年(1584)小牧・長久手の戦いが始まると
徳川家康側につき、秀吉に抵抗します。

が頼みの家康も秀吉と和議を結んでしまったので
越中の富山城を居城にしていた
佐々成政は、完全に孤立してしまいます。

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★サラサラ越え
 戦国武将・佐々成政は、何としても織田政権を
秀吉からの乗っ取りを防ぐべくもう一度
徳川家康を説得するために、

なんと、冬の厳寒期の北アルプスを踏破して
信濃から家康のいる浜松へ歩いていくという
とんでもないことをやっています。

なぜ、こんなルートを選んだかと言えば
東は上杉景勝、西は前田利家とすべて羽柴秀吉側の
敵側なので、南のこのルートしかなかったそうです。

そして、死に者狂いで浜松にたどり着いた
佐々成政は、必死に家康を説得しますが
家康は、ダメだと言って成政の説得は失敗。

成政は、また来た道を戻っていきました。
しかし、途中雪崩事故によって連れ添った家臣達が
半分になったそうな。

それにしても、何という気力なんでしょう!
現代の装備でも冬山登山は、危険極まりないのに
時は戦国時代。その当時の装備で北アルプスを
踏破するとは、現代人には、とてもできそうにありません。

ちなみに、佐々成政が通ったルートの途中にザラ峠という
場所があることから、サラサラ越えと命名。

山登りが好きな方は、ぜひザラ峠に行って
佐々成政の気持ちに思いをはせてみてはいかがですか?

私も時間があれば、いつか行ってみたいです。
その前に登山できる体力があるか心配(笑)

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天正13年の富山の役で羽柴軍の大軍に城を囲まれた
佐々成政は、勝ち目がないとみて
秀吉に降伏。

秀吉は降伏を許し、佐々成政を助命し
妻子と共に、大坂城にその身柄を移しました。

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この頃の秀吉は敵側であった大将ですら
許すだけの器量があったのですが

天下統一を達成して
絶大な権力を握ると
周りの意見を聞き入れる余裕といいますか
別人のように残虐性が現れます。

甥であり、自分の後継者と定めた豊臣秀次(新納慎也)
謀反の疑いありとして自害に追い込んでいます。

さらに秀次の妻子もことごとく惨殺。
権力を握るとここまで、人は変わるのかという感じです。

とにかく、自分の実子である豊臣秀頼(中川大志)
跡を継いで欲しいという願いが、
結局、悪い方向へと、突き進むことに……。

歴史にもしは、よく言われることですが

唯一、秀吉にきつく、諫言(かんげん)できる
つまり、いさめることができる
秀吉の弟、豊臣秀長(千葉哲也)がもう少し長生き
していてくれれば、このような事態には
ならなかったのでは

と悔やまれてなりません。

かなり、話はそれてしまいましたが
佐々成政の統治力を買っていた秀吉は
あたらしく肥後の当主として
任せましたが、

成政は、早速太閤検地によって
肥後の国人衆の力を弱めようと動きだすと
すぐさま国人達が大反発。

天正15年(1587)、肥後国人一揆なるものが発生!!

この一揆には、多数の百姓も加わっており
しかも、その百姓達はめいめい刀や脇差しをもっていたので
この一揆を抑えることに大苦戦。

佐々成政は、ついには秀吉に応援要請をします。
援軍によってなんとか一揆勢を制圧に成功。

天正16年(1588)2月、謝罪のため、大坂に出向いた
佐々成政。しかし、秀吉は成政に面会を許さず

そのまま、摂津国尼崎法園寺において切腹。

ここで、成政亡き、肥後国の北半分を
加藤清正

南半分を小西行長へと与えらえることに。

この二人は、朝鮮出兵で先を争って進撃を開始。
その功名争いが二人の仲を決定的なものに
変えていきます。

詳しくは次の記事にて紹介しますね。

すこし、長くなったので後半戦は
また、別の記事にて紹介しますね。

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