今回の真田丸では、忍者として登場するのは、
この、佐助だけみたいですが、

そもそも
信州の片田舎の小豪族に過ぎなかった、真田家が
なぜ、戦国時代を泳ぎきれたのか?

それには、忍術=情報戦術が重要な役まわりを
していたと考えられます。

今回は忍術についてシェアしたいと思います。

それでは、いきましょう!

小見出し

【真田十勇士の筆頭で、子供たちのヒーロー】

そもそも真田十勇士って、なんだろうとお思いだと思います
昭和生まれの私でも、

『真田十勇士? ん?』って感じです(笑)

真田十勇士とは、『真田丸』の主人公真田信繁(堺雅人)に仕えた
とされる、10人の家臣のことです。

とりあえず列挙しますと

1.猿飛佐助(さるとびさすけ)

2.霧隠才蔵(きりがくれさいぞう)

3.三好清海入道(みよしせいかいにゅうどう)・兄

4.三好伊三入道(みよしいさにゅうどう)・弟

5.穴山子助(あなやまこすけ)

6.由利鎌之助(ゆりかまのすけ)

7.筧十蔵(かけいじゅうぞう)

8.海野六郎(うんのろくろう)

9.根津甚八(ねづじんぱち)

10.望月六郎(もちづきろくろう)

以上10人になりますが、どうですか
なにか、気が付きましたか?

私は、気づきました!!あれっ!
どこかで、聞いたような名前があるぞと

とくに、9番の根津甚八という名は、役者さんでいたような気がします。
さっそく、ググると確かに、存在されてました。

で、この十勇士が生まれたいきさつなのですが
とても、歴史がありまして
さかのぼると、江戸時代中期の小説『真田三代記』という本が
原型だそうです。

そして、真田十勇士という名前が実際に生まれたのは
立川文庫(たつかわぶんこ)が制作した講談を小型本として
だしたのが、原点になります。

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講談というのは、
いわゆる講談師が釈台といわれる机の前に座り
張り扇で机を、『ぱぱん』と叩きながら

リズムよく話を展開するといもので、落語とよく似ているように
思われるそうですが、落語は会話によって成り立つ芸なので
また、違うものだそうです。

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真田の講談といえば、難波戦記があります

難波戦記についても記事を書きました

真田丸の人気の原点本になる難波戦記

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この立川文庫が出した講談本は、
1911年(明治44)から、1924(大正13)にかけて196篇刊行されたそうですが
なかでも、一番人気だったのが

真田ものの、『猿飛佐助』だそうで、
この本は、1914年(大正3)に出版されました。

今から、ちょうど100年前になりますね。
その当時の小学生に絶大な人気があったそうです。
なぜ、人気があったのか気になりますね。

この猿飛佐助は、いろいろ説がありまして
国民作家と言われた、司馬遼太郎先生は
みずからの著書『風神の門』で

『明治から大正年間に流行った立川文庫の作者たちが創りだした。
名前も彼らが命名したのではないか』と推測されておられます。

つまり、人気が出るようにあらかじめ作られたキャラクターだという
ことがわかります。

この講談本から、派生して生まれたのが大衆文学といわれるものに続いて
いくので、現在のあらゆる小説本の始まりが、講談からスタートしている
ことに改めて、勉強になりました。

【真田家は、忍者の家系だった!?】

真田家の祖先は、
平安時代、朝廷より信濃守として信州に赴任した
滋野一族と言われています。

そして、古くから信濃に土着した滋野一族は
海野(うんの)、禰津(ねず)、望月(もちづき)の3家に分かれて
発展していきました。

この3家のうち、もっとも勢力を誇ったのが
海野家であり、
真田家は、この海野家から
起こったとされております。

海野家は、
呪術(じゅじゅつ)や加持祈祷(かじきとう)
に詳しい一族でありました。

この呪術というのは、今でいう占いにあたるもので

真田丸の第二回目で仕えていた武田家が滅び
新たに仕えべき家を選択するときに

真田昌幸が、息子信幸にくじ引きをして
神のご神託を伺うというシーンがありましたが

あながち、あのような事をやっていたのかも
しれませんね(笑)

そして、滋野一族のもう一つの顔として
『歩き巫女(みこ)』としても、一面もあったのです。

神社の巫女さん

この『歩き巫女(みこ)』とは
特定の神社には、属せず、全国を巡って祈祷や
託宣を行って生計を立てていた巫女。

そして信州の巫女は、
『信濃巫』(しなのみこ)と呼ばれておりました。

この『歩き巫女(みこ)』は全国を巡っているので
当然、各国の情報も収集していました。

これに目を付けたのが当時信濃に勢力を伸ばしていた
甲斐の武田信玄

信玄は、当時滋野一族である3家のひとつ望月家に
信玄の弟、武田信繁の長男、信頼(のぶより)を

この望月家に養子として
送り込んでいました。

が、永禄4年に起こった第4次川中島の戦いに参戦した時の
ケガが原因で亡くなってしまいます。

そしてこの
信頼に嫁入りしていた、
婦人が望月千代女(もちづきちよめ)なる人物であります。

この望月千代女は、甲賀流忍者の筆頭の家柄、
『甲賀望月氏』の出身で
くノ一(くのいち)としても優秀であったため

その腕を買われ、
武田信玄により甲斐・信濃二国の巫女頭領を任されました。

ちなみに、くノ一というのは、
女忍者のことを指しています。

当時は、男性よりも、女性のほうが、
各地を自由に移動できたそうで、
忍者としての適性は、
男性よりも女性のほうが、向いていたそうです。

というのも、下女や女中として、
奉公人として雇ってもらいやすいのと

定期的に親もとへ帰る宿下がりをうまく利用できたので
情報伝達がスムーズにできたのが、
大きかったみたいですね。

そして、この望月千代女は、
信玄の命により、戦乱の世で
孤児や捨て子となった少女たちを集め、

歩き巫女としての呪術や祈祷だけで
はなく、女忍者としての忍術や
相手が男性だった場合、女性ならではの
特技を活かした技を教えた、養成所を建設。

そして、全国各地に
その養成した『歩き巫女(みこ)』を送りこんで
信玄に情報を送ったそうです。

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もちろん、滋野一族の有力豪族の出の真田家も
『歩き巫女(みこ)』を利用していましたが

もっとすごい技をもっていて、
なおかつ女性には
ない強靭な肉体と超自然的な職種の人達がいました。

なんだか、わかりますか?

答えをいいますね(笑)

信州、今の長野県ですね。
長野といえば、日本の屋根と
言われるたくさんの峰々、つまり山ですね。

そんな山の中には、霊験あらたかなところがあります。

そう答えは、『修験者』と言われる人々です。

真田家勃興の立役者、
真田幸隆(信繁の祖父)は、
この『修験者』を忍びとして利用したのです。

じつは、真田家が収めた松尾城と上田城近辺には
四阿山(あづまやさん)という
多くの『修験者』
修行をしていた聖地があったのです。

さきほどから、見てきたとおり滋野一族は
もともと忍びとしての素養が多く含まれている一族で

真田家も忍びの一族として、常に情報を得る術を
もっていましたが、

この戦国時代の真っただ中に置かれたしかも
近隣の国々に回りをいつ攻められるかわからない
土地柄と相まって、

このように情報収集能力を
磨いてきたので、真田家は、後世まで、その血脈を
残すことが、できたといえるでしょう。

真田丸をみれば、その苦しい状況の一旦が
垣間見ることができるので、ぜひ見てみてくださいね。

長くなりましたが、真田家について
興味を持つ人が増えることになれば

また、いろんなことが分かってくると
思いますので、ぜひ、真田に関する情報で
あれば、なんでもいいので、お知れせくださいね。

ではでは

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