戦国最強と言われた戦国武将武田信玄
(最強説は、個人的にいろいろありますが)に仕えていた、真田家。





そもそも、真田家は、
信濃の豪族で、滋野一族である海野棟綱の娘の子が、
真田幸隆
(幸綱という名も言われておりますが)が、
真田家、中興の祖になります。





この幸隆は、幸村のお祖父さんになるわけですが、
当時所領にしていた小県(現在の長野県東御市)を、
そのころ甲斐一国を
統一した武田信虎(武田信玄の父で猛将)と
村上義清諏訪頼重らに侵攻され、
上杉憲政のいる上野国に逃れていた。




そして、所領を回復する機会をうかがっていた幸隆。





そこへ、登場してきたのが、
父信虎を国外追放して頭領になった若き信玄です。
信玄は、信濃国全体を支配すべしと
諏訪頼重村上義清も倒そうと考えていたので、
所領を回復したい幸隆にとって、
信玄の力を利用して、自分の領地を回復しようとしたワケです。




そこで、信玄の軍師と言われていた
山本勘助
(この人物は架空の人物だとされていましたが、勘助という文字が書かれた古文書が出てきて実在していたことが判明)
が幸隆を推挙するという形で幸隆は、
信玄に仕えることになる。



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信玄は、孫子の兵法の一部を軍旗にするぐらい
その兵法書を愛読していただけあって、
戦上手でしたが、
その信玄を苦しめたといいますか、
戦に勝った武将が村上義清です。





この武将は、信濃の北部を領有していたのですが、
猛将で2度も信玄の侵攻を食い止めています。





一度目は、天文17(1548)年に行われた上田原の戦いで、
このときは、最初の緒戦は、村上軍を撃破。
この勝ちで油断していたところを、
義清に攻められ武田軍は完敗する。




この戦いでは、武田家重臣の二人、
板垣信方甘利虎泰を失っている。





二度目は、天文19(1550)年、
砥石崩れとして有名な戦いであるが、
村上義清の本城葛尾城の出城、
砥石城を7000の兵で攻めたのですが、





城兵は、500人足らずでしたが、
士気は高く守りが堅くて、武田軍が攻めあぐねているうちに、
砥石城の援軍に駆け付けた村上軍2000の兵と城兵に挟撃される形となり、
信玄は、撤退を余儀なくされる。





このように、村上義清に二度も痛い目にあわされ面目まるつぶれの状態を
救ったのが真田幸隆でした。




幸隆は、正面から砥石城を落とすのは、
難しいと思っていたので、
真田家のお家芸ともいえる
「謀略」を使って、



砥石城を義清から預かっていた大須賀久兵衛を籠絡して自ら開城させた。




武田軍が1ヶ月かかっても落とせなかった城を
わずか1日で陥落させた功績は、かなり絶大。





幸隆は、外様(今でいう途中採用)の武将でありながら、
譜代武将並みに信玄に信用され、
武田家には、なくてはならないほどの重臣として活躍する。





そして、幸隆は、信玄が亡くなるまで懸命に仕えることになります。

【真田家が一武将から大名になるきっかけについて】

武田家の一武将だった真田家を大名にまで格上げできたのは、
幸隆の三男坊の昌幸によってなされるのですが、
この昌幸こそ後の徳川家康をさんざん苦しめる人物です。




昌幸は、天文16(1547)に信濃の国で生まれ、
当時親父さんの幸隆がまだ、信玄に仕えたばかりのときで、





武田家がどんどん勢力を伸ばしている勃興期に生まれている。
そして、当時の習わしとして
自分の子息や娘を人質として仕えたあるじに預けられるのですが、
昌幸も信玄のもとへ人質として送られている。




人一倍、人を見る目がある、
信玄は、すぐに昌幸の才能を見抜き、
人質の身でありながら、
信玄に寵愛され奥近習として抜擢。





すでに子供の頃から、抜きんでた才あふれる人物だったのでしょう。




初陣は、あの有名な川中島の戦い
(武田信玄と上杉謙信が一騎打ちをしたという)

昌幸がまだ14才という若さながら、
信玄の危機に際しても決して側を離れなかったという。





この川中島の戦いは、通算5回信玄と謙信が戦っているのですが、
とくに一騎打ちがあったこの第4回がもっとも激しい戦いで、





戦いの前半戦は、謙信の軍に本陣を襲撃されるという
危機的状態だったのですが、
別動隊が到着した後半は、なんとか持ち直している戦いで、
戦国時代の中でも最も激しい
修羅場を昌幸は、
経験したことになる。





昌幸は、信玄を第二の父として慕い、
己の才能を開花させていきました。
のちに信玄は、『わが両目のごとき人物として』
この真田昌幸曽根昌世の二人をあげています。




しかし、昌幸は、幸隆の三男坊なので、
真田家を継ぐ権利がないので、
信玄は生母の実家の武藤家の養子として迎えている。




この一事をもってしてもいかに昌幸が信玄からその才を愛されていたかがわかりますね。


ここからは、昌幸は武藤喜兵衛と名乗ることになる。
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そして元亀3(1572)10月に晩年の信玄が上洛を目指して
「西上作戦」が開始。
昌幸は、26才の若武者から立派な武将として、
この「西上作戦」に参加している。




信玄は自国の領内の高遠城から軍を二手に分けて
一手の秋山信友に美濃の岩村城を攻略させている。





そして、信玄率いる本隊は、
徳川家康領内の二俣城を難なく攻略し、
いよいよ家康の本城の浜松城を攻めると見せかけて、





急きょ、進路を西にとって浜松城を素通りして
通過するように進軍するように命令。
これは、信玄が若き家康をおびきだす為の巧妙な進軍でした。

ここで、若き家康は、
当初は浜松城に籠城するつもりだったのを思い切って、
信玄に戦いを挑みました。





信玄は、待ってましたと言わんばかりに軍を展開。




これが三方ヶ原の戦いと言われる戦いで、
家康は、武田軍に完膚なきまでにたたかれ、敗走。
命からがら浜松城に逃げ帰ります。
もちろん、昌幸もこの戦いに参陣していました。




この、家康が経験した負け戦を勝者の側の武田軍にいて経験したことが、
昌幸をして、
徳川なぞたいしたことがないという自負心を生んだんじゃないかなと私個人の考えですが、感じています。



ですが、この後信玄に残された時間は、わずかでした。





年をまたいだ元亀4(1573)年4月、信玄は病没。
このあと、武田家は、四男の勝頼が当主を引き継ぐのですが、




天正3(1575)年5月、織田・徳川連合軍と長篠の戦いで惨敗。
この戦いで信玄を支えた譜代の重臣である、

馬場信春
山県昌景
内藤昌豊
といった名だたる武将を失い、武田家は衰亡の一途をたどる。





この戦いで、真田家の頭領で昌幸の二人の兄であった、
信綱・昌輝も討ち死にをしている。
そのため、急きょ真田性に復して家督を相続することになる。

【実際に会ったかどうか】

その後も、勝頼を懸命に支えて仕えていたが、
天正10(1582)3月、
織田・徳川連合軍が武田征伐を起こすと、
武田家臣の木曽義昌
小山田信茂らに裏切られついに、武田家は滅亡する。





このとき、昌幸は最後まで
自分の居城に勝頼を迎えて戦う意欲を見せていたのだが、
勝頼は外様の真田より譜代の小山田信茂を頼って
信茂の居城岩殿城を目指して落ち延びようとしたが、
信茂に裏切られて途中の天目山で息子の信勝と共に、
自害してしまった。





これを伝え聞いた昌幸は、
勝頼が自分を選択してくれなかったことが無念だったに違いない。
しかし、今は、嘆き悲しむ余裕はない。





真田家が生き残るには、信長に付くしかないと判断した昌幸は、
いち早く織田家の家臣になることを決心。




信長は昌幸の本領を安堵し、滝川一益の与力として組み入れている。





しかし、この3ヶ月後には、
あの天正10(1582)年6月2日
本能寺の変が起こってしまう。





なので、実際に、昌幸が信長に面会できたかどうかは、
何ともいえませんが、
信長が降伏してきた、武田家の一武将と面会するかというとはなはだ、疑問。





信長は、裏切るやつは、
またそういう場面が起これば必ず裏切るというふうに
考えていたふしがあるので、





面会はしなかったんじゃないかなと思っています。




今回の真田丸の中でも重要な役割では、
あるのですが信長役を誰が演じるのか、
かなり楽しみではあります。
自分としては、真田の話だけに、
真田広之さんなんかが演じてくれるとうれしいのですが(笑)


真田丸のキャストが続々発表。直江兼続はいないのかな?
みなさんが知らない意外な人がキャスティングされました!