前回の真田丸に登場した旭(あさひ)。
それにしても、あそこまで徳川家康と険悪といいますか
口もききたくなかったのでしょうか?
清水ミチコさんの演技も凄かったのですが
あのような関係になったのも、豊臣秀吉の妹として
生まれたばっかりに、無理やり人質として
行かされたいきさつがあるのです。
それでは、今回は清水ミチコさん
演じる旭(あさひ)をスポットに
豊臣秀吉の兄弟関係について
シェアしていきたいと思います。
それでは、いきましょう!
小見出し
【秀吉政権の崩壊の序章のきっかけ】
まず、最初に
豊臣秀吉の兄弟について
みなさん、ご存じでしょうか?
豊臣秀吉=天下人
つまり、日本全国を統一した人として
秀吉本人ばかりにクローズアップされたばかりに
秀吉の兄弟については
みなさんあまり知られていないような気がします。
なので、
まず、秀吉は4兄弟の長男で
姉・とも【天文3年(1534)生まれ】
長男・本人(藤吉郎)【天文6年(1537)生まれ】
弟・小一郎(秀長)【天文9年(1540)生まれ】
妹・旭【天文12年(1543)生まれ】
じつは、この4兄妹でもっとも長生きしたのは
秀吉の姉・ともで、
亡くなったのは、寛永2年(1625)になるので、享年92歳。
別名は、瑞龍院日秀(ずいりゅういんにっしゅう)。
秀吉の姉という立場上、
夫・三好吉房との間にできた三人の息子たちはいずれも
秀吉に取り立てられ、出世をし特に長男の秀次は、秀吉の跡継ぎとして
関白職を譲られています。
しかし、その後秀吉に実子・秀頼が誕生すると
悲劇が……。
豊臣秀次(新納慎也)に関してはまた別の機会に譲るとして
じつは、この瑞龍院日秀は、
大坂夏の陣が起こった時、
真田信繁の娘・御田姫(おでんひめ)とその母・隆清院(りゅうせいいん)
をかくまっています。
母・隆清院(りゅうせいいん)は息子秀次の娘なので孫にあたり
御田姫(おでんひめ)は、ひ孫にあたります。
瑞龍院日秀(ずいりゅういんにっしゅう)は、豊臣家の栄枯盛衰を
秀吉の正室でもある高台院とともに、最後をみとった形になります。
一族から、偉大な英雄が現れると
親族も強制的に時代の大きなうねりに巻き込まれるので
はたして、幸せであったのかどうか?
そして、秀吉の妹・旭(清水ミチコ)も
突如として、悲運が襲いかかってきます。
秀吉にとって、天下統一事業を進めるにあたって
もっとも障害になっていたのが、徳川家康でした。
徳川家康は、秀吉の主君であった
織田信長と同盟関係を結んでいた
相手で、本来であれば、自分よりもはるかに格が高く
自分の家来筋に収めるのは、至難の業でありました。
力ずくで倒そうとして勃発した小牧・長久手の戦いでは
戦闘では、家康側にやられてしまい、
焦った秀吉は政治力を駆使して
家康側の旗印であった織田信雄を調略することに成功。
しかし、徳川家康を何としても配下にしなければ
ということで、自分の妹・旭を家康の正室として
送る決断をしました。
が、しかし、天正14年(1586)時点で
旭は、すでに副田甚兵衛吉成という家臣に嫁いでいたので
無理やり妹を離縁させて、家康のもとへ送ることに……。
無理やり離縁させられた副田甚兵衛吉成は、
離縁の条件として
提示された5万石加増を拒否して、出家。
陰斎と号して尾張国烏森に隠棲。
もちろん、旭も無理やり離縁させられた上に
好きでもなんでもない相手に突如、
嫁ぐことに
なるわけですから、家康と口もききたくない気持ちも
わからないわけではありません。
しかし、ここまで、しても
まだ上洛してこない家康に最後は自分の母親の『なか』も
人質として派遣するわけですから
秀吉がいかに、家康の存在を重視といいますか
気を使っていたか、わかりますね。
【豊臣秀吉の名補佐役】
秀吉より3つ年下の小一郎(千葉 哲也)も
百姓を続けることに嫌気がさしていたので
兄・秀吉に仕えて秀吉の裏方として
なくては、ならない存在として出世していきます
天正元年(1573)、秀吉が浅井氏を滅ぼした
功績により長浜城主となると
城代を任されるほど信頼されています。
この頃、秀吉と織田信長から一字ずつをもらって
『秀長』という名前に改名。
秀吉が織田信長から中国攻め総司令官に命じられると
弟の秀長は、山陰道および但馬国(たじまこく)、現在の兵庫県
方面の担当として全権を与えれています。
兄・秀吉と共に但馬・東播磨平定に尽力。
もちろん、この頃は、軍師といわれた黒田官兵衛も
秀吉の帷幕にいて支えていたわけですが。
そして、天正10年(1582)毛利氏の武将・清水宗治がこもる
備中高松城攻めの最中に本能寺の変が起こり
秀長も当然、その後の山崎の戦い
翌年の賤ヶ岳の戦いに参戦。
その功績により
播磨・但馬の2か国を収める大名にまで登りつめています。
そして、天正12年(1584)には、徳川家康との間に
小牧・長久手の戦いが発生。
秀長自身は、家康側であった織田信雄との講和交渉で
秀吉の名代として、重要な役割をはたしています。
また、この戦いでは、甥の豊臣秀次の初陣で、
命からがら逃げて帰るという
大失態をしているわけですが、
戦後、この甥の失態から秀吉は
秀次に対する怒りが収まらないとみた秀長が
その後の紀州と四国征伐の際、秀次と共に出陣し
甥が秀吉の信頼回復するためのサポートを欠かしませんでした。
秀長は、秀吉政権の調整役の役目を追っている重要な裏方で
常に兄・秀吉の裏方で、支える優しい人柄であったことが
うかがえます。
天正14年(1586)、九州の大友宗麟が南の島津氏の勢力に押され
この窮地を脱出するため、秀吉に助けをもとめ、みずから上洛。
その会見の際、秀吉は、宗麟に
『内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候』と
言ったと伝わっています。
つまり、表立って言いにくいことは
千利休に相談し、公(おおやけ)の相談は、弟の秀長に相談されよと
言っているわけで、いかに秀長が
秀吉政権の中枢にいたかが、わかるエピソードになりますね。
しかし、天正18年の小田原征伐の頃は
秀長は病気で参加できませんでした。
翌天正19年(1591)秀長は、大和郡山城内で病死。享年52歳。
その前年には、家康に嫁いでいた旭も病気で亡くなっています。
そして、秀長が亡くなると同時に
秀吉は、大明帝国の征服を目指して
朝鮮出兵を開始。
秀長は生前、この朝鮮出兵はうまくいかないと予測していたふしが
あるとかないとか。
秀吉政権の調整役であった秀長がいなくなったことで
秀吉の暴走を止められる人物がいなくなり、秀長の死後、
千利休の自害・政権の跡取りとした秀次の自害。
そして、朝鮮出兵と政権の基盤が崩れていったことは
歴史の事実であります。
一代の英雄である秀吉も、豊臣家の将来がどうなるか
わかっていたふしがあります。
それは、秀吉の辞世の句とされる
『露と落ち露と消えにし我が身かな
浪花の事は夢のまた夢』
「夢の中で夢を見ているような自分は露の如く消えていく
はかない生涯だった」と回想しています。
天下人となった秀吉でさえも、最後は
このような境地になるのですから、
この世に生まれた以上、今、自分ができることに
一生懸命頑張るしかないなと感じています。
ではでは。
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