これから、
真田丸キャスト表
を順次UPしていこうと考えています。

まずは、
主人公の真田幸村についての
最新情報を
とりまぜながら、
ご紹介できればと思います。

まず、
真田丸を作った
真田幸村というこの名前なんですが、

現在資料として残っている
自筆の書状では、
すべて信繁と
書かれており、幸村という名前は、

大坂夏の陣以降の軍記物や資料から、
使われているので、
本当なら信繁が正解だと
思うのですが、

今や一般に広く知られている幸村がメインで使用されているので、
わたくしは、幸村で書いていこうと思います。

それでは、いきましょう!

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この幸村、
まず謎が多くて、

出生した年も1567年(永禄10)とか1570(元亀1)
と言われていて
はっきりわかっていないのです。

そもそも、親父さんの昌幸のほうが有名で
(戦国期に徳川家康の軍を2回も退けていることから)、

息子の幸村は、
あまり表舞台に出てこないので、

知られていなかったし、
冬の陣、夏の陣で活躍するまで、

ほとんど無名に
近いので、
突如大活躍したように思えますが、

じつは、
苦労人で家康と同じような境遇を
青年期から過ごしているのです。

つまり、
人質時代が長かったということです。

第一次上田合戦(1585年)のおり、
真田家は、北方の上杉景勝を盟主にしていて、
そのあかしとして、
息子の幸村が人質として、
景勝のもとに預けられており、

その後秀吉が勢力を伸ばしてくると、

豊臣政権に
帰属し、

人質として大坂に移動しています。
なので、
歴史上の表舞台には、
ほぼ世にでないまま、過ごしてきたように、
見えますが、

まったく合戦経験がないのかというとそんなことは、
ないと思います。

特に冬・夏の陣であれだけ合戦上手に戦えたのは、
ある程度実践経験がないと無理だと思います。

通説では、
秀吉の臣下として小田原攻めに参加したのが、
初陣といわれていますが、

人質時代の第一次上田合戦に参加した可能性
は、おおいにあるというのが、
最新の考証らしいです。

ただ、関ケ原の戦いのときは、
いわゆる第二次上田合戦は、
親父さんと一緒になって徳川軍を退けているので、
実践経験がないと
いうことは、ないと思うのですが、

いわゆる資料には、あまり出てこないので、
よくわからないというのがほんとのところだそうです。

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ただ、九度山に蟄居中に親父さんから、
いろいろなことを教わっていたということは、

容易に想像できるので、
いわゆるイマジネーションというか想定は、
かなりしていたのでは、
ないかなと思います。

今で言うイメージトレーニングを
さんざん繰り返したみたいな(笑)

そして、親父さんの昌幸は、
いずれ豊臣方と徳川方が手切れになって
合戦になることを
予想していたと言われているので、

幸村も

その時に備えて、体を鍛えて自分の出番を
今か今かと
研ぎ澄ませていたのだろうと思います。

なので、準備期間としては、
十分すぎるということですね。
なにせ、
九度山蟄居生活が14年
近く続いたわけですから、

大坂方から入城の使者が来たら、
待ってましたといわんばかりだと考えられますね。
まさに人生最晩年に訪れた
最後のチャンスなんですから。

結果は、
どうあれ最後までじぶんを取り立ててくれた、
豊臣家に殉じた戦い方は、
かなり人々のこころに突き刺さったとおもいます。

最後にでっかい
打ち上げ花火があがるような感じかな。

男としてこの世に生まれてきて、
自分の生き様を世に問えるということは、
この上ない幸せだったのでは、
ないのかなとおもいます。

大坂夏の陣から400年経っても、
人々に愛されるのは、凄いことだし、

また、
自分の信念を貫いた人物として
今もこれからも、
人気が衰えることは、ないでしょう。

堺 雅人さんが演じる新たな、
幸村像が生まれれば、

ますますイマジネーションが膨らんできて、
ワクワクしますね。
来年の大河ほんと楽しみにしております。

真田丸の出来た経緯を詳しく知りたい方は
こちら➡真田丸とは何の名前?誰がつけたの?