いよいよ2015年も、あと残り4日となりました。
毎年、といいますか
年々、1年間の長さが、短く感じられます。

来年の大河もいよいよ1月10日の日曜日からスタートですね。

私自身も楽しみにしておりますが、
やはり見るならある程度予備知識を
もって見るだけでも、ワクワク見れると思いますので、
このサイトでは、
登場人物の背景や、歴史的事実を掲載していこうと考えております。

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遂に決まりました!後藤又兵衛役は、素晴らしい役者
さんに!記事の最後のほうに、記載しておりますので
最後まで、ご覧くださいね。2016-3-1
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今日、お知らせしたい人物は、後藤又兵衛なる人物についてです。

では、いきましょう!

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小見出し

【後藤又兵衛(基次)とは?】

後藤又兵衛は、もちろん戦国時代を生きた人物なんですが、
又兵衛もとても優秀な侍大将で
合戦のたびに武功を立てて、
いた人物なんですが、

後藤又兵衛の画像
【http://bell3.blog.eonet.jp/default/2015/03/post-f369.htmlのページから引用】

ある人物、
つまり黒田長政という武将と仲が悪かったことが、
人生を変えたといえますね。

この黒田長政は、秀吉の軍師と言われた、
黒田官兵衛の息子で
父親に、似ずどちらかと言えば武功派で、
豊臣政権下では、
事務方の石田三成とは、
かなり犬猿の仲だったみたいですね。

この黒田長政の親父さんの官兵衛に引き取られて
息子の長政の家臣として、
仕えていたのが、後藤又兵衛になります。

黒田官兵衛→      息子 黒田長政

     → 血縁のない息子 後藤又兵衛

又兵衛が幼いころ、親父さんが亡くなったので、
その親父さんの知り合いで合った官兵衛
が息子のように可愛がって育てたといういきさつがあるので、

ここからは、私の想像ですが、
又兵衛としては、親父さんの官兵衛には、
言うことを聞くけれど息子の長政には、
とても
反感するといいますか、
ライバルのような気持があったのかもしれないですね。

逸話として朝鮮征伐の時に、
黒田長政が敵と遭遇し、
戦闘しているときに
たまたま、近くにいた後藤又兵衛は、
長政を助けることもなく、ただ傍観するのみ。

のちになぜ、長政を助太刀しなかったのかと問われると、
『あれぐらいの、敵にやられるような殿では、仕方がない』と言って、
助けなかったそうです。

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でも、黒田長政からしてみれば、
何とか敵を倒せたから、いいものの
もし、やられていたら、
と後藤又兵衛のことを、とても憎んだだろうと思われます。

又兵衛の感覚からしたら、自分の主君というよりかは、
長政のことを兄弟かライバルのような
感覚だったのかも、知れないですね。

事実、官兵衛が亡くなった年から
2年後の慶長11年(1606年)、
一族そろって跡を継いだ
黒田長政の黒田家を出奔。

それでも、武勇の誉れ高い、
後藤又兵衛を配下にしたいと
福島正則らが、召し抱えようとしましたが、
旧主の黒田長政が『奉公構』(ほうこうかまい)という
(大名が、出奔した家臣又は改易した者について、
他家が召抱えないように釘を刺す回状を出すことをいう。)

行為のせいで、誰のところからも雇われずに
浪人生活を送る破目になります。

これは、現代でもよくあることですが、
人間関係が、良くないというか、
反りが合わないといいますか、
相性が良くない人というのは、いつの時代もありますね。

【大坂5人衆とは誰か?】

そして、大坂の陣が始まると当然、
汚名挽回といいますか、
地位と名誉の回復のために、
後藤又兵衛ももちろん参集します。

このとき、参集した有名な浪人、
『真田信繁』『毛利勝永』『長宗我部盛親』『明石全登』の4人と
共に
   【大坂5人衆】というそうです。
『真田信繁』については
こちらもどうぞ
真田丸のキャスト表『真田幸村(信繁)』役 堺雅人

この4人と後藤又兵衛が違うところは、
他の4人は、先の『関ケ原の戦い』で西軍として
戦い、敗れた人たちですが、
後藤又兵衛は、黒田家として東軍側に参戦しており、
敗者では、ないということです。

つまり、他の4人は、敗者復活戦の意味合いがあるのですが
又兵衛は、どういう気持ちで参加したのでしょうか?

たぶん
又兵衛はこの戦で死に場所を求めていたのかもしれませんね。

大坂夏の陣で、大坂城の外堀と内堀を埋め立てられたので、
前回の冬の陣みたいに、籠城することができないので、
大坂方は、徳川軍が進撃してくるルートを抑えようと

(この当時進撃が予想されるルートとして河内街道と奈良街道の2つのルートがある)

道明寺の戦い
<直系子孫が明かす!真田幸村の真実 宝島社>より引用

より道の狭い、奈良街道を選択。
奈良街道から大坂へ出る狭隘の場所
道明寺口に先に進撃していた後藤又兵衛率いる、
2800は
この街道を進軍していた松平忠輝・伊達政宗ら35000を相手に

孤軍奮闘。数時間激闘していたが、伊達政宗率いる鉄砲隊の射撃によって
後藤又兵衛自身が討ち死にしてしまった。

大坂方の残りが出張ってきたときには、時すでに遅し。
ここまでの午前中までの戦いが道明寺の戦いで
午後からの戦いが誉田の戦いといいます。

もし、もう少し早く真田信繁率いる部隊が到着していれば、
後藤又兵衛は
討ち死にしなくても、よかったかもしれないのですが、
江戸時代前期の軍学者・北条氏長による『慶元記 大坂冬夏両陣始末』では、
又兵衛が信繁に対し、
『明日は、討ち死にする覚悟である。あなたの軍は深入りせずにこの地
を立ち去ってください』との書状を
出していたという記載があるそうです。

軍略にも通じていた後藤又兵衛は、すでに玉砕覚悟で
先行することにして、死に場所を求めていたのかもしれません。

初めから外堀と内堀を埋められた時点でこの戦は、負け戦だと
後藤又兵衛は感じていたことでしょう。

後藤又兵衛、このとき56歳。見事な戦いぶりです。

【又兵衛桜】

のちの世の人々も潔い散り際の後藤又兵衛に、死んで欲しくなかったのでしょう。
生存して落ち延びたという伝説もいろいろ残っていて、

奈良県の宇陀市には、後藤又兵衛が隠遁生活を送って一生を終えたという場所に
又兵衛桜と呼ばれる桜の大木が残っています。

又兵衛桜と菜の花

真田丸の主人公である真田信繁といい、
この後藤又兵衛といい
自分の望む生き方に愚直に邁進する姿に
わたくしは、とても感銘を受けました。

覚悟が決まると、人間は、物凄いオーラを発するし
逆に覚悟が決まらなければ、いつまでたっても
変わらないいわゆる原石のまま、埋もれていってしまうという
とても、いい教訓ですね。

みなさんの参考になれば、わたくしもうれしいです。
さて、この後藤又兵衛が出てくるのは、番組後半になると思うので

真田丸の大河で果たして、後藤又兵衛が出てくるのか
ひょっとしたら、出てこないかもしれないですが、
少なくとも、真田信繁と言葉を交わした中では
あるので、気になるところではありますね。

【最強!後藤又兵衛が生まれました】

後藤又兵衛という真田信繁にとっては、盟友ともいえる大事な役を
『哀川翔』(あいかわしょう)さんに決定しました。

哀川翔さん(後藤又兵衛役)

【NHKサイトから引用】

哀川翔さんのコメント
『後藤又兵衛という魅力的な人物を演じるという機会に恵まれ、うれしく思います。
自分自身、全力でやりますので、よろしくお願いします。』

とたいへん力強いコメントをいただけました。

哀川さんは、1961年5月24日(54歳)。後藤又兵衛が大坂の陣の時は、56歳なので
年齢的にもピタリと合いますし、なによりVシネマの帝王と言われるほどの俳優さんなので
今から、どのような演技が見れるのか、楽しみでなりません。

ではでは。

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ついに真田丸の短い予告が放送された!?