今年ものこりあと2ヶ月とちょっと。
大河『真田丸』もいよいよクライマックスの大坂の陣が第42回『味方』から
描かれます。
ここまで、大河ドラマ『真田丸』を視聴してきて
気づいておられるかたもおられると思いますが、
今年の大河は、過去の大河ドラマと比較すると
なぜか、合戦シーンが大幅にカット。
特に際立ったのが、天下分け目の戦いと言われた
関ケ原の戦いを、佐助の一言で終わりました。
『お味方惨敗!』
私も、視聴していましたが、思わず絶句。
『えっ!これで終わり?』
今までの戦国時代を描いていた大河ドラマでは
合戦シーンが、メインのはずなのですが、
今回の真田丸では、ほぼ、ナレーションの有働由美子アナウンサーの言葉だけで
終わることが、たびたびですよね。
一部、ファンからは、もう少し合戦シーンを見てみたいという
声もあるみたいですが、これは、脚本家の三谷幸喜さんのある考えから
そうなったみたいです。詳しくは本記事で解説しますね。(笑)
その前に、真田丸の最終回はいつなの?という声が聞こえてきたので
お答えしますね。
真田丸は、今年の1月10日(日)スタートからの全50回。
なので、順調にいけば、12月18日(日)が最終回となると
思われます。
正式な日は、こちらの大河ドラマ『真田丸』のサイトで確認してくださいね。
➡真田丸のサイト
では、タイトルにもあるとおり、主人公である信繁の最期について
シェアできたらと思います。
それでは、いきましょう!
小見出し
【合戦シーンよりプロセスを大事に!?】
残すところ、真田丸の放送も残り9回。【この記事の執筆段階で】
上記で述べたように、ここまで合戦シーンをできるだけ
描かずに描いてきたのは、
一つには、主人公の真田信繁【堺雅人】または幸村の生涯で、最も輝いたのが
人生最後の大いくさである大坂の陣であるということ。
なので、予算の関係からも、できるだけ前半の合戦シーンは省いて
最後の大坂の陣につぎ込みたいと考えているのでしょう。
それと、脚本家の三谷幸喜さんが
戦国時代に起こった大事件。
例えば、大河前半に起こった本能寺の変【天正10年(1582)】
や、その後の関東地域に発生した天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)など
その事件に至るまでのプロセスを人間関係から丁寧に描くという方針は
この大河を通してまさに、首尾一貫変わっていませんよね。
★ここまでの流れ
第1話~第13話 『上田編』 信繁の青春時代を描く
第14話~第31話 『大坂編』 豊臣秀吉の馬廻衆として活躍
第32話~第41話 『三成・九度山編』信繁が身近に接してきた人々の死
第42話~ 『大坂の陣』幸村と名を改め、日本一のつわものとして
上記を見て欲しいのですが
今年の大河ドラマは、実に秀吉との関係を描いた『大坂編』に18話も
時間をさいて、丁寧に秀吉政権と信繁の関係を描いています。
特に、馬廻として秀吉の奉行衆である
石田三成や、大谷吉継とかなり親しかったことが印象として
記憶に残りましたよね。
実際の史実では、あれほど、秀吉と親しく話していたのかは、
今となってはわかりませんが、ですが、秀吉が信繁のまことの実力を
見抜いていたからこそ、あれほど可愛がったのでしょう。
やはり、秀吉は、『人たらし』と言われただけあって
人を見る目だけは、確かなものがあったんですね。(笑)
【生涯のパートナーであるきりはどうなる?】
信繁の正室は、あくまで、大谷吉継の娘・春【松岡茉優】さんなのですが
実質的にともうしますか、信繁の生涯にわたって常に側にいたのはきり【長澤まさみ】さんでした。
なので、視聴者にとっても、きりが、その後、どうなるのか?
ここに、関心がたくさん集まっています。
結果から、申しますとちゃんと結ばれます(笑)
もちろん、九度山を脱出して
大坂城に入城してからも、きりは常につかず、はなれず
信繁のことを気にかけていますし、信繁もきりの存在の大きさに
気づいているはずです。
実は、一昨日、NHK大河ドラマ・ストーリー『真田丸・完結編』を
アマゾンで予約注文していたものが、届きまして
そこには、ラストまでのおおまかなあらすじが、記載されているのですが
感動のフィナーレが、待っています。
どうしても、あらすじが知りたい方は下記のリンクからどうぞ
↓
真田丸(完結編)
|
あまり、詳しく書いてしまうとネタバレになってしまうので
これぐらいにしておきますが、やはり、いつまでも
夢や目標に向かって、まっしぐらに突き進むのって
カッコいいですよね。
最初のきりさんの登場から
なぜ、きりさんだけ、現代語でしゃべってるの?
きりって必要なの?
こちらに関しては
この記事にて書いてますのでどうぞ
➡真田丸のキャスト・長澤まさみさんのセリフ回しについて
みたいな批判も一部にはありましたが
ここまで、見てきて
やはり、信繁の人生には、欠かせない人でしたね。
それにしても、信繁って
『モテたんですね!』
うらやましい限りです(笑)
【幸村の最期の秘策とは?】
さてさて、物語は最後は、幸村の壮絶な討ち死にと
史実では、なっているので、
最初っから、負け戦(いくさ)だったのでしょうか?
いえいえ、そんなことはなかったと
思います。
なぜかと申しますと
実際、慶長19年の暮れから慶長20年(1614~1615)に起こった
この戦いには、大坂方には、浪人衆が10万人も集まったという事実。
はたして、死ぬとわかっていて
これだけの人々が、集まるでしょうか?
永禄3年(1560)、織田信長が、当時最も天下取りに近いと言われた大大名である
今川義元を奇襲攻撃で破った桶狭間(おけはざま)の戦いにあるように
戦いというのは、実際にやってみなければ、どうなるか?
誰にもわかりません。
信長は、この桶狭間では、約10倍近い敵を
奇襲で倒しているわけですから、
この大坂の陣の戦力差は、わずか2倍。
十分勝機が、あったとみる方が正しいはずです。
その点、今回の真田丸でももちろん、大坂方の人間は
最後まで勝てると信じて描いていく方針ですと
きっぱりおっしゃっているので、
最後の放送日でもある12月18日まで、
大坂の豊臣秀頼が勝つと思って見てくださいね。
ただ、大坂方に集まったのは浪人衆なので
統率が取れにくいというデメリットが、あるのですが
この点は、残りの少ない話で、三谷幸喜さんが
丁寧に描いてくれるのを、じっくり見るとしましょう。
信繁が、大坂城に入城して
大坂5人衆をまとめるのも、たいへんだったと思われるのですが
そんな中でも、信繁は、最後まで
徳川家康に一泡(ひとあわ)ふかすために、あきらめていませんでした。
じつは、ある秘策があったのです。
その秘策とは、ある一つの銃なのです。
その名は『馬上宿許筒(ばじょうしゅくしゃづつ)』
名前の通り、この銃は、馬に乗りながら打てる当時最新式の銃でした。
この銃を所有しているのが、人気テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」の鑑定家としても知られる澤田平さん。
澤田さんによると、
『この馬上宿許筒は、全長約60㎝の半自動の連発銃で、8発の弾丸を10秒おきに発射できた』そうで、しかも、この銃を開発したのは、九度山に幽閉されているときに開発したとか。
この銃を引っ提げて、大坂夏の陣では、幸村はただ家康の首一つを討ち取るために
猛攻撃を仕掛けたわけで、さすがの家康も、生きたここちがしなかったでしょう。
しかし、真田勢は、徳川の本隊にたどり着くまでに
何度も突撃したので、ヘトヘトだったのでしょう。
ようやく家康を狙える至近距離まで近づいた幸村が
とっておきの秘策であるこの『馬上宿許筒(ばじょうしゅくしゃづつ)』
で、狙いうちしようとした矢先、敵の妨害によって
なんと!大事な銃を馬上から、落としてしまいました。
その後、疲れ果てた幸村は、安居神社の境内で休憩していたところ
松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、
その際に幸村が
『わしの首をとって手柄にされよ!』と言ったとか。
あえなく、幸村は討たれてしまいました。
まさしく、全力を出し尽くしての敗北でした。
大坂の陣後、この幸村秘策の銃は、紀州徳川家が保存していたのですが、
第二次世界大戦後の混乱期にアメリカのコレクターの手に渡っていたのを
澤田さんが、発見し20年越しの交渉の末、手に入れたとか。
この話を初めて聞いた時、私が感じたのは、信繁が九度山で14年もの
長きの間、ただただ、黙って時を過ごしていたのでは、なくて
いつか、徳川家康にもう一度戦う時が、来た時に備えて
常に、準備をしていた姿を脳裏に浮かびました。そして、父・昌幸の無念を
晴らそうとしている執念を感じました。
本当に、徳川家康にとっては、真田は天敵だったんですね。
お~怖(こわ)。
真田丸でもこの銃が出てくるのか、とても楽しみですね。
ではでは。