真田丸が始まった当初、主人公の真田信繁の妻の座を巡って
2人の女性が争っていました。

1.信繁の幼なじみの『きり』【長澤まさみ】

2.堀田作兵衛【藤本隆宏】の妹『梅』【黒木華】

信繁の最初の妻の座を射止めたのは、『梅』さんでした。
しかし、第一次上田合戦(天正13年【1585】)が行われたなかで
『梅』は、敵側によって殺害されてしまいます。

そして、次に結ばれるのが、いわゆる信繁の正室といわれる
竹林院=春【松岡茉優】になります。

そして、さんは、いつ登場するのか?

第26回瓜売【7月3日予定】の回に登場します。
ですので、楽しみに!!

あ!待って待って(汗)

本編が下記にあるのでぜひ、一読くださいね。

小見出し

【真田丸の産みの親!?】

真田丸の真田信繁の正室である竹林院役には女優の松岡茉優(まつおかまゆ)さんに決定しました。
かなり思い切ったキャスト選びですが、これでますます真田丸の
魅力もアップしていくことも考えられます。

なかなかいいキャスト選びではないでしょうか。

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松岡茉優さんの登場は第26回瓜売【7月3日予定】ということになりそうです。
この竹林院大谷刑部吉継の娘で大坂の陣において
信繁が秀頼方につくことになった要因の一つではないかと考えられています。

これによって真田信繁が豊臣方につくことを決めた可能性もあるわけで、
信繁と竹林院がどのような関係にあったのかということも注目されるところでしょう。

おしどり夫婦のように仲が良かったのかどうか気になるところではあります。
大坂の陣では豊臣方が圧倒的に不利であるということは、
当時の武将なら誰でも分かっていたことでしょう。

その不利な方につくということは大変な決断です。

真田一族は信繁の兄信幸が徳川方に、
信繁と父は豊臣方についています。

世間ではこの決断を、
どちらが勝っても真田家を存続させられるようにしたともいわれていますが、
両軍に分かれたことでお家が必ず存続するかというと、
そんな簡単ではないのが戦国の世です。

敵方に家族がいるとなれば、当然その舞台は信用を無くしますから、
戦が終わってからもいい扱いを受けることは難しくなります。

裏切るつもりだったとして処分される可能性もあるわけです。
そうしたリスクもありながらも徳川と豊臣とに分かれる決断をすることとなった理由が
この竹林院と関係しているかもしれないわけです。

関ヶ原の戦いで西軍の軍師的役割を果たした
大谷吉継の娘ということですから、
竹林院を信繁の正室とするにあたってはかなりの
すったもんだがあったのではないかとも予想されます。

真田丸ではそうしたところも描かれることになるかもしれません。

単に信繁の正室として日々穏やかに
過ごしたということにはならないでしょう。

関ヶ原の戦いの因縁を大坂の陣まで引きずることとなったのが、
この婚姻ということにもなるわけです。

この婚姻の為、信繁が豊臣方につくことを決めたのであれば、
今の信繁人気を作ったきっかけがこの竹林院ということになるかもしれません。

彼女がいたからこそ信繁が活躍する場が出てきたわけです。

ですから、いってみれば真田丸の産みの親ということになるのかもしれません。
いずれにしても、このキャストを
松岡茉優さんがどう演じるのかは見どころの一つとなるでしょう。

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【信繁の正室・竹林院】

松岡茉優さん演じる、竹林院。

まずは、こちらの画像をご覧ください。

真田幸村のこども達

【直系子孫が明かす! 真田幸村の真実 
 監修 真田徹】宝島社から引用

上記の画像からもわかるとおり
竹林院真田信繁との間には、2男5女の合計7人も
子供を設けています。

そもそも、この竹林院とよばれる女性の実名は、謎で
生まれ年もわからず、ただ、豊臣氏の家臣・大谷吉継の子という
ことぐらいしか、わかっておりません。

なので、信繁といつ結婚したのか?

これもはっきりとは
わかっていなのですが

現在、真田丸の放送されている
小田原征伐(天正18年【1590】)があった頃から
文禄3年【1594】ぐらいではないかと言われています。

夫の信繁の前半生も謎が多いですが
正室婦人の竹林院、真田丸では春【松岡茉優】という名で呼ばれる女性も
謎が多いですね。

この結婚は、豊臣氏と真田家の結びつきを強めるための
政略結婚であったと思われますが、

こののち、関ケ原の戦い(慶長5年【1600)のあと、
西軍側について敗者となった
義父・真田昌幸、夫・信繁と共に九度山蟄居生活に
付き従っているので、夫婦仲は良かったと思われます。

そして、この九度山での蟄居生活が14年という
途方もなく、つづくわけですが、
元・大名という身分でもあり、
生活は、困窮をきわめたようです。

言い伝えでは、竹林院が真田親子の生計を立てるために
上田地方の紬「つむぎ」技術を応用して
『真田紐(さなだひも)』を考案し、家臣達が
この『真田紐(さなだひも)』を各地に行商し、
収入の足しにしたばかりではなく

行商ついでに各地の情報を仕入れて
真田親子にいつでも、決起できるだけの
準備をしていたとか。

真田昌幸・信繁親子ならまんざら
ない話でもないなと感じてしまいます。

しかし、大坂の陣が起こる
三年前、慶長16年(1611)に
昌幸は、九度山にて病気のため死去。

さぞかし、無念だったに違いありません。

かつて、武田信玄公をして
『我が目の如き、信頼できる人物』と評された
真田昌幸は、自分の死んだのち、大坂方の豊臣家と
関東の徳川家が、いずれ手切れとなり
合戦が起こると予想していただろうし、

もし、真田昌幸が大坂の陣が発生した
慶長19年から20年まで、生きながらえて
いれば、ああやすやすと大坂方が敗れたかどうか?

歴史の流れが変わっていたかもしれませんね。

その後、大坂城入城を果たした
真田信繁は、家康にあと一歩というところまで
追い詰めて亡くなるわけですが

竹林院は、その後どうなるのでしょうか?

信繁が1615年5月7日に戦死すると
竹林院は、娘の『あぐり』と共に
避難先の京都から九度山方面へと逃れましたが

紀伊藩主・浅野長晟(あさのながあきら)の捜索に
発見され、5月20日、京都の家康に身柄を引き渡され
ました。

しかし、無罪となり
釈放された竹林院は、娘の『おかね』の嫁ぎ先である
石川重正夫婦とともに、京都で暮らしたそうです。

亡くなったのは、慶安2年(1649)。
大坂の陣から、34年後になりますね。

信繁が苦しい九度山生活を乗り切れたのは
この竹林院の存在が大きかったことを思えば
ある意味、日本一の強者とうたわれた信繁の
産みの親は、この竹林院だったのかもしれません。

きっと、明るく前向きな女性だったに
違いありません。

真田丸での竹林院の登場を心待ちにして
います。ではでは。

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