今回は、信繁とともに
活躍されている『きり』という女性から
みた、秀次の人物像と

秀次に見染られた『きり』
はたして、秀次の側室となるのか
どうかについて、解説していきたいと思います。

それでは、いきましょう!

小見出し

【豊穣の地・信濃】

NHKで放送されている大河ドラマ真田丸は、
戦国時代において現在の長野県から群馬県の一部を領地として
治めていた真田家の話です。

戦国時代の長野県(信濃)は関東と関西を結ぶ移動拠点としての価値だけでなく、
長野県(信濃)の山々の水や資源は豊富でこの土地を収めることは、敵対している大名にとっては
喉から手が出るほどに欲しい領地だったのです。

そして、その信濃の領地をいち早く組み入れたのが
甲斐の戦国大名・武田信玄公です。

その武田家からその地を守るように言われていた真田家にとっては、
周りの敵対する大名からいかに守るか
難しいかじ取りをする歴史が視聴者を魅了しています。

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【きりという女性からみた秀次像】

現在、放送されている真田丸には人気の俳優さんたちや意外な声優さんなどが出演しておられ
その俳優さんたちが演じる役の中でどうしても気になるキャラクターというのがいます。

誰だかわかりますか?

そのキャラクターというのが女優長澤まさみさんが演じている
真田家に関わる女性の一人『きり』です。

きりは主人公である真田信繁【堺雅人】の幼馴染であり、
性格は天真爛漫で行動範囲の広い活発な女性として描かれています。

物語では幼馴染ということもあり真田信繁とは浅からぬ恋心を持っていますが、
ただ信繁は恋仲として見るよりかは同じ年代のお姉さんという感じで接しています。

NHKの公式本では、『生涯のパートナー』という設定になっています。

なぜきりが注目されるのか?

『きり』という女性からみた視点で
描かれているからです。

 
そんな『きり』とある人物の接点は、大坂編が始まり信繁と共に上洛し
豊臣家の奥女中として仕えることになったことから始まります。
大坂城に入ったときに、ある人物から頼みごとをされるのですがその頼みごとをされた相手というのが
豊臣秀吉の甥、秀次なのです。

『きり』と豊臣秀次との出会いの場面

秀次がその頼みごとをしたときに印象に残ったためか、
秀次きりにたいして特別な感情を抱いているような感じになってきており

きりの頼み事であれば信繁の上役の石田三成や叔父である豊臣秀吉との間を取り持つことも率先して行っています。

さらに淀君『捨て』と名付けられた子供【史実では鶴松】が生まれた時には、
その『捨て』に座が奪われることを気にしているのかという周囲の
うわさに対しての悩みをきりに打ち明けるなど

秀次きりに対して恋心を持っているように感じられるのです。

ここで気になるのが、その後この2人がどうなるのかということですが
別段、特に何も起こりません。

というか史実では、ありえない設定なので
真田丸でも、結ばれることはないと思います。

それと秀次には、恋を進めるような安心する時間が無くなるためです。

秀吉の長男『捨て』はあえなく病気によって幼い命を散らすことで
座を奪われることも無くなったのですが、

しかしその後再び淀君がご懐妊をして子供が生まれたことで
状況が一変します。

両親の愛がねじ曲がって子供の未来を案じた結果、
本来そのままでいいはずの秀次の座である関白の座を
息子に譲らせるために、突如として謀反の疑いをかけられ高野山へ。

その後きり
元々持っていた信繁との恋心を成就して側室の一人となり
信繁と添い遂げることになります。

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【秀吉政権の後継者の城・近江八幡山城】

豊臣秀次は、秀頼が生まれるまでは
名実共に、間違いなく豊臣政権つまり
秀吉の後継者として存在していたわけで、

その秀次がにわかに、謀反の疑いをかけられる
いきさつやストーリーをどのように描くのか
真田丸の秀次像が、ますます楽しみですね。

話は変わりますが
以前、秀次が治めた近江八幡山城へ行ったことがあるのですが
標高272メートルの山のいただきにあり
ロープウェイがあるので、興味がある方は
ぜひ、一度行くことをお勧めいたします。

八幡山城は、織田信長が建てた安土城の西隣に位置し
城の背後に琵琶湖を望む点など、
立地上では、安土城との共通点もあり
城好きな方ならなおさら一度は見ておきたい場所といえます。

天正13年(1585)に秀次が近江支配のために
築いたお城で天正18年(1590)には、京極高次が城主となります。
しかし、ご存じのように
文禄4年(1595)秀次切腹事件が発生すると
秀吉の怒りは、すさまじく
秀次が築いた八幡山城は、跡形もないぐらいに
取り壊されたということです。

それにしても、秀吉
みずからの手で、自分の親族である甥・秀次
この世から抹殺し、その痕跡までも
残すまいとした結果、
豊臣家が大坂の陣で滅ぶわけですが
その遠因を秀吉みずから招いてしまったと

後世の私たちから見れば、わかるわけですが
戦国の英雄・秀吉の晩年の行いは
絶大なる権力を握った秀吉にしか
わからないかも、しれませんね。

それでは、また(^^)/
ではでは。

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