九度山での蟄居生活を送っていた真田信繁【堺雅人】



豊臣家と徳川家の対立が明確化してきたその時、
豊臣家の当主でもある秀頼【中川大志】は、徳川の家臣になる選択枝もあったわけですが



大阪城の実際の権力者である秀頼の母・淀の方は、

『なぜ?天下人であった秀吉の息子・秀頼が家康の家来に
ならなければいけないの』
という考えがあったので



あくまで、徳川家と対決姿勢を崩そうとはしませんでした。



そして、何とか豊臣家を存続させようと
ただ一人、頑張っていた片桐且元【小林隆】を逆に
裏切るといいますか、徳川と内通しているのでは、ないかと

疑う始末。



すでに時代の流れは、豊臣家から徳川家へと変わっていることに
淀の方や、秀頼も気づいては、いたはずだと
推測されますが、それを素直に受け入れることが、できなかったのかも
しれませんね。



これは、人間の性質ともいえる、
『あの時代はよかったよな』みたいな
回顧主義が、頭によぎり、新しい時代についていけなかったとも
いえますね。



さて、豊臣家も徳川との戦いに備えて
ただ、だまって時を過ごしていたわけでは、なくて
各地の大名へ、味方するように工作も、し



それと、ともに全国各地の浪人衆を採用するために
募集活動を盛んにしていました。



もちろん、かつて豊臣家に仕えていた、これと思われる人物へは
秀頼直々の手紙を渡して、大坂にくるように
使者を送っていたわけですが、



その中に、かつて秀吉の馬廻衆として仕えた真田信繁
もちろん含まれていて、使者がくるわけです。



ですが、前回の真田丸では、信繁は、その使者(明石全登)に対して
大坂方へ味方することを、即座に断っていました。


この展開は、驚きました




しかし、この信繁の決断に異をとなえたのが
幼なじみでもある、きり【長澤まさみ】でした。



★きりの言葉
『あなたは、何のために生まれてきたの?』

『この世に生まれてきた証(あかし)を一つでも残せたの?』

『なにも、やっていないじゃないの!!』

ガツンと頭を叩かれたような気がしました。

案外、男って、いざとなると優柔不断で、
女性の方が、いざとなったら腹をくくる決断は
速いといいますか、そんな感じがします(笑)。



なので、信繁の九度山脱出の裏には
真田丸で描かれたような感じも、あったかもしれないと
感じています。



きりに励まされ、九度山脱出をはかる信繁と
共に、大坂入城を果たした一人の若武者がいました。


今回の記事の主役でもある真田大助、またの名を幸昌(ゆきまさ)



すこし遠回りになりましたが
真田大助【浦上晟周】について、シェアできたらと思います。

それでは、いきましょう!




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【真田大助とは?】


真田幸昌

幸昌(ゆきまさ)?

ゆきまさって、なにか変だと思いませんか?



そう、この名前は、幸昌のおじいさんである昌幸の名を前後
入れ替えた名前にしてあるのです。


信繁が、考えてつけたのか?



それとも、昌幸本人が、冗談半分でいったのか?
どちらにしても、真田家の人々は、おもしろいですね(笑)



この幸昌が実際の名前なのですが、
通称は、『大助』(だいすけ)



この大助は、信繁の正室である竹林院【松岡茉優】との
間に生まれた嫡男です。



ただ、信繁が蟄居中に生まれた子供なので
生まれた年が、慶長5年(1600)~慶長8年(1603)の間としかわからなくて
なんとも、もどかしいですが


とにかく、九度山で生まれたことだけは、確かです。



この大助がどのような人物であったのか?



まったくの謎で、父の信繁同様、前半生は、どのような
ものだったのか、まったくわかりません。



ただ、亡くなったのは、大坂夏の陣にて
豊臣秀頼や、淀殿と一緒に自害して果てたということ
だけが、わかっています。

切腹を覚悟


《一説には、大坂城を抜け出したとも言われていますが》



生まれた年が、はっきりしないので亡くなったときの年齢は
16歳から13歳であったと思われます。


現代で言えば中学生の未成年。



そんな若き少年が、父である真田信繁と共に
若き血潮を散らすとは、なんともいえません。


なぜか、ある親子を思い浮かんできました。



それは、本能寺の変にて、亡くなった織田信長・信忠親子です。

信忠は、父・信長が京都の本能寺にて明智光秀率いる大軍勢に襲撃されていると聞き
その場から、逃げ出すことが、出来たのに
逃げるどころか、父を救うために、命がけで戦い散っていきました。



きっと信忠にとって、父の信長は、尊敬に値する存在だったからこそ
自分だけが、生き残る選択など、ありえなかったのでしょう。



大助にとっても父の信繁は、あこがれの存在で
父の息子に生まれたことを誇りにし、少しでも
父の役に立ちたいという純粋な気持ちがあったはずです。



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ですから、慶長20年5月8日の真田信繁の最期の戦いである
天王寺口の戦いに父・信繁から一緒に戦うことを許されず、
『秀頼様と行動を共にせよ!』と言われた時は


かなりのショックだっただろうし、でも父の命令にさからうわけにも、いかないので



泣く泣く信繁の元を離れたと言われています。
これは、前日の道明寺の戦いで、大助が見事に敵の武将の首を
討ち取ったのですが、その際に負傷したので



信繁が、息子を気づかって最前線の戦いから
わざと外したのかもしれませんね。
あるいは、親心からお前は、生きて落ち延びよと……



大坂城が落城と決まった時、秀頼と共に自害する覚悟を
決めていた大助に、秀頼の旗本であった速水守久(はやみもりひさ)が
『そなたは、まだ若年なので、城を抜けて落ち延びよ』と言ったそうですが、



その言葉を耳にしても、大助は聞き入れず
父の命令どうりに、秀頼と共に自害することを選択しました。
なんとも、切ない気持ちになりますが、


感動する男性


大助の心意気に熱いものを感じずにはいられません。

【浦上晟周さんとは】


そんな、若き少年である大助役を演じるのは、
浦上晟周【うらがみせいしゅう】さん。


浦上さんは、1999年生まれの現在16歳。



大助が亡くなったと言われる年齢にピッタリ。
しかも、父同様、内に秘めたる熱い炎を感じるような好青年役を
見事に演じておられます。

今後の活躍も大変期待できますね。


【最後に!】


信繁・大助親子は、同じ日に亡くなったわけですが、
同じように、親子で亡くなった
織田信長・信忠親子。

そんな信忠についてはこちらの記事を
ご覧くださいね。

真田丸の織田信忠役のキャストは、注目の若手俳優さん