来年の大河ドラマでは、真田家という信濃(今の長野県)の一豪族から、
身を起こして徳川時代を大名として生き残った話になるわけで、
いまでいうところの、
中小企業がどうやって
この生きるか死ぬかの厳しい戦国時代
を乗り切ったのかを描くわけです。
なので、今までの織田家や毛利家、
または、武田家、伊達家のような
ある程度の規模といいますか、
土地と領民を従えた今でいう
大企業とは、また違った視点から、
見れるので、
より庶民目線で見られるといいますか、
親近感を抱きやすいと感じています。
特に、今回の真田幸村
という人物ですが、
幸村について、詳しくはこちらもどうぞ
➡真田丸のキャスト表『真田幸村(信繁)』役堺 雅人
親父さんの昌幸の次男坊ということで、
真田の家を継ぐという意味では、お兄さんの
信幸がいたので、気楽といいいますか、
自由奔放に育ったのでは、
ないのかなと個人的には、想像しております。
では、いきましょう。
小見出し
【真田幸村と直江兼続の関係について】
真田幸村が生まれたといわれているのが
1567(永禄10)で亡くなったのが1615(慶長20)なので、
享年49才。
一方、
直江兼続が生まれたといわれているのが
1560(永禄3)で亡くなったのが
1619(元和5)なので、享年60才。
いざこうやって、年代を見てみると、
ほぼ同時代を生きた二人だというのがわかりました。
自分も今、改めて、
こうやって調べてみて、驚いています。
しかも、生まれ育った地域(幸村は、信濃。
兼続は、越後。)も比較的近いし、
これは、接点があっても不思議では、ないなと。
まず、真田家は、先祖が信濃の豪族滋野氏とされ、
戦国期に海野棟綱の子、
幸隆(幸村の祖父)が小県郡真田荘に住んで以来
真田氏を称するようになる。
その海野氏滅亡後、武田信玄に仕えるようになる。
また、直江家は、上杉家の重臣の家で、
直江信綱が謙信の馬回として仕えた。
が、謙信急死後の御舘の乱では、
上杉景勝方に付いて景勝勝利に貢献。
その後、重用されるも、
天正9年(1581)9月9日、
重臣・河田長親の遺領を巡るトラブルにより
春日山城内で会談中のところを毛利秀広に襲われ、
山崎秀仙と共に殺害された。
信綱の死後、
直江家を継いだのが、
のちの名家老、
このときは、樋口兼続と名乗っていた、
兼続が当主として、
引き継ぐことになった。
なお、この殺害された直江信綱は、
婿養子だったので、
直江家は、2代続いて婿養子ということになる。
兼続は、
この信綱の正室おせんだけで、
側室は持たなかったらしい。
すこし前置きが長くなりましたが、
真田家が仕えたのは、武田家。
直江家が仕えたのが上杉家と、
ともに、敵対関係になったり、同盟関係になったりと、
非常に関係性が高いといえます。
隣国なので、その時の状況次第で、
目まぐるしく変化するので、
たいへんな時代だといえますね。
そして、幸村の父、
昌幸が(昌幸も三男坊)真田本家を継いだ時は、
非常に苦しいときで、
仕えていた武田家が信長によって滅ぼされ、
その信長も天正10年(1582)の本能寺の変で急死。
このとき、昌幸は、その時々の情勢を鑑み、
北条・徳川・上杉と次々と主家を乗り換えている。
のちに、秀吉が昌幸を評して
『表裏比興の者』といったそうだが、
昌幸としては、そうしなければ生き残れないわけだから、
致し方のないところだろうと言いたかったと思われる。
【秀吉政権での立ち位置の共通性】
そして、この昌幸が上杉に仕える証として、
上杉家に幸村(信繁)を人質として派遣(1585)。
幸村19才の時である。
また、このとき兼続は
上杉家の内政・外交をほぼ一手で取り仕切り始めたころで、
幸村と対面した可能性は、
十分考えられます。
ここから、先は、
自分の想像の領域ですが、
上杉家と人脈を作ったので、
豊臣政権下では、石田三成や大谷吉継らの
グループに属すのは、
当然の成り行きなのかなと感じました。
このあたりの詳しいいきさつは、
また別の機会でご紹介できたらと考えています。
ですから、この二人の接点は、
十分あり得るというのが結論です。