さて、前回の9月25日放送の『昌幸』で
ついに、真田一族の長である真田昌幸【草刈正雄】が亡くなりました。



亡くなったのは慶長16年(1611)、享年65。



大坂冬の陣が慶長19年(1614)の暮に勃発しているので
昌幸がもし、あと3年以上長生きをしていれば
ひょっとしたら、徳川家康の江戸幕府が転覆していた可能性もあります。



なんといっても
昌幸には、過去に二度
★天正13年(1585)第一次上田合戦
★慶長5年(1600)第二次上田合戦



も徳川軍を敗退させている実績がありますからね。



戦国時代はいわゆる合戦に強い武将が
世にでる時代だったので、この実績は相当なもので
昌幸が大坂城に入城していたら、



合戦上手といわれた徳川家康といえども
そうやすやすと攻め寄せることが、できたかどうか?
疑問ですね(笑)



とくに家康は野戦は得意でしたが、攻城戦は不得手なので
なおさらですね。



真田昌幸には、同い年に生まれた真田信伊(さなだのぶただ)【栗原英雄】という弟が
いたのですが、この弟は、真田丸にも描かれていたように真田家を離れ上杉・北条・徳川
と他家に仕えながらも、真田家の為に謀略活動をしていましたよね。



実際のところ、どうだったのか?
わかりませんが、真田家の結束力の強さから見ても
裏方活動をしていても、なんら不思議ではないですね。



この昌幸の弟・信伊【一度徳川家を去っていますが】は、関ケ原の戦い以降は徳川幕府の幕臣として仕えていきます。そして、亡くなったのは、寛永9年(1632)、世は三代将軍・徳川家光の時代になっています。享年86歳。



真田家の人々は、この信伊といい、信繁の兄・信之も93歳という長命をたもっているのでどちらかと言えば、長生きの家系でもあります。
なので、昌幸の65歳も当時としては、長生きの部類なのでしょうが
あと5年、長生きしていれば、豊臣家は生き残れた可能性も
でてきますね。



かなり、タイトルとかけ離れた導入部分となってしまいましたが
昌幸が亡くなったあと、信繁が九度山生活からどのように脱出したのか?



この点をシェアできたらと思います。

それでは、いきましょう!



スポンサーリンク



【大坂からの使者は誰?】


関ケ原の戦いで戦闘には、勝利した真田昌幸・信繁親子でしたが
かんじんの関ケ原では、1日で東軍側の家康軍の圧勝。



兄・信之の必死の嘆願によって命だけは
助かりましたが、高野山へ蟄居とあいなりました。



当初は蓮華上院(れんげじょういん)というお寺に蟄居されていたのですが
てぜまでもあり、かつ冬場の寒さもあるので、ふもとの九度山での生活を
許されて下山しました。【蓮華上院は女人禁制だったからとも】



私事になりますが、もう30年ぐらい前になりますが、
自分が小学生ぐらいの時、町内会の旅行で高野山へ行ったことがあります。



大型バスに乗って、なんども坂道をうねりながら、高野山へ向かった記憶がありますね。
そして、到着して感じたのが、とても涼しかったということです。

大型バス

標高1000メートル級の山々に囲まれた場所なので、行った時期は、夏だったのですが
普段住んでいる自宅付近の温度よりも、5℃から10℃ぐらい低くかったと思います。



なので、信州の上田から高野山へやってきた真田親子も高野山の冬場の寒さは
相当応えたと思われます。



当初は、慣れない地での生活はたいへんだったと思います。
それに、蟄居(ちっきょ)といえば、家から一歩も出れないようなイメージを浮かべると
思いますが、そのような閉じこもった生活ではなく



比較的、ゆるい監視の目がついているだけで
自由に行動できたと言われています。



しかし、関ケ原以前は大名として忙しく頭を働かせてきた
昌幸にとっては、たいへん退屈な生活だったかもしれませんね。



かたや信繁は、慶長16年(1611)、昌幸が亡くなってから3年。九度山生活も通算14年。



突如として
信繁に転機となるある使者が、現れます



そのある使者とは、関ケ原の戦場で宇喜多秀家の家老でもあった明石全登(あかしてるずみ)
という武将でした。


スポンサーリンク




【脱出ルートは?なぜ!うまく脱出できたのか?】


明石全登が使者として選ばれたのは、浪人衆の中では、大坂城に入城したのが一番乗りだったこと。そのことによって、秀頼からもかなり信頼されたということです。



そして、この明石によってもたらされた用件とは、大坂城への入城依頼で支度金として
金二百枚(2万石相当)、現代の金額に直すと約15億円相当

小判
とんでもない金額ですね(笑)



他の浪人衆にどれだけの支度金を払っていたのか
わかりませんが、とりあえず、豊臣秀頼としては、かつて父の太閤秀吉の馬廻衆に取り立てられていた、真田信繁にかなり期待していたことだけは、間違いなさそうです。


そうでないと、あのような大金をもって入城依頼をしないですからね。


当時であっても、真田の武名はそれなりに評価されていたということですかね。



さて、豊臣家からの入城要請に、奮起した真田信繁は、九度山からの脱出をはかるわけですが、どのようなルートで脱出したのか、気になりますよね。


ルートは2通り候補が上がっています。

下記をご覧くださいね。




九度山脱出ルート 《直系子孫が明かす!真田幸村の真実 監修:真田徹 【宝島社】より引用》



伝説では近在の庄屋、年寄をはじめとする百姓に年来世話になっているお礼をしたいと呼び集め、数百人に大盤ぶるまいをしました。そこで、皆が酔いつぶれたところを見計らって百姓達が乗ってきた馬に荷物を載せて、主従百人ばかりで紀の川を下ってゆうゆうと脱出したといわれています。



しかし、ちょっと考えてくださいね。数百人を呼んでおいて全員が酔いつぶれるなんてこともおかしいし、主従百人ぐらいの団体ともなれば、絶対にバレてしまいます。



これは、近在の庄屋や百姓たちも、うすうす大坂に入城することはわかっていましたが、見て見ぬふりをしたものと思われます。地元の人たちも、真田信繁・大助親子の大坂行きをこっそり見守っていたのかもしれませんね。



だって、九度山生活14年ですからね。



すっかり地元に溶け込んでいてもおかしくない年月です。



そして、監視役を担っていた紀伊国和歌山城主の浅野幸長(あさのよしなが)なんかは、完全な豊臣系大名で、この幸長は、加藤清正と共に、二条城で行われた秀頼と家康の会見を成功させるために、警備を担っていたぐらいです。



二条城の会見後、加藤清正浅野幸長もあっけなく、亡くなっているので一説では毒殺されたのでは!?とも言われています。



信繁が九度山を脱出するときは、幸長のあとを継いだ弟・長晟(ながあきら)が監視役だったのですが、兄同様、見て見ぬふりをしたのでしょう。



真田丸でも描かれていますが、信繁はどうも人に好かれる好人物だったんでしょうね。


【和歌山県のどのあたりなの?九度山に実際にいくときの交通手段は?】


さて、ここまで、真田親子の九度山について観てきてぜひ、行ってみたいと感じていると思います。(わたくしの勝手な想像ですが(笑))



まず、和歌山県九度山町にある真田庵の場所ですが
こちらをどうぞ






行く交通手段ですが、公共交通機関でいくなら
南海電車の南海なんば駅から九度山駅で下車。【所要65分】



もし車で行かれるのでしたら、【道の駅・柿の郷くどやま】に駐車して行くことをお勧めします。



【九度山の真田まつりはいつ頃開催してるのか?】


また、もし行かれるのでしたら、毎年5月上旬に開催される九度山の真田まつりに合わせて
行くことを、おすすめします。



今年は大河ドラマで『真田丸』をやっているので、大盛況だったみたいですね。
ちなみに、今年のパンフレットはこちら

平成28年度【紀州九度山真田まつり】パンフレット PDF



来年も開催されると思いますので、ぜひぜひ真田親子が暮らしたという真田庵【善名称院】まで足を運んでくださいね。



詳しい情報はこちらのサイトをご覧になってくださいね。

【九度山町・観光情報】

今年、真田まつりに行かれたかたが、おられたら、ぜひ感想などをコメントくださるとうれしいですね。



【最後に!】


大坂城入城後、真田信繁と共に、名を馳せたサムライ大将とは、誰だと思いますか?

気になる方はこちらをクリックしてくださいね!
  ⇩
『〇〇又兵衛』!?