来年の大河ドラマの主役真田信繁を演じる堺雅人さんが、
赤い旗がたなびく中で
凛々しく赤備えの姿でどっしりと畳床机(たたみしょうぎ)
と言わるる昔の椅子に腰かけたポスター。

キャッチコピーは、「今だって、愛と勇気の旗をかかげていいんだ。」

実際の画像はこちら↓
真田丸ポスター

実際の幸村がどんな感じのひとだったのか、わからないですが、
雰囲気的には、とてもベリーグッドですね。

じゃ、はじめましょう。

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小見出し

【真田信繁の子孫が仙台で脈々と受け継がれていた事実】

来年の主人公の真田信繁こと幸村

この幸村という名は、のちの人々が創作した名前というのが通説だったのですが、
実は、そうとも言い切れない事実があるのです。

その前にみなさんに知っておいてもらいたい事実があります。
それが、信繁の子孫が現代の世に生き残っているという
事実です。

信繁の正室と知られている竹林院
この竹林院は関ケ原の戦いで、

散った大谷吉継の娘で真田紐と言われるものを作成した
と言われている。

この紐を堺の商人を通じて販売し、
各地で行商人が「真田の作った強い紐」と言って売り歩いた事から
名づけられたそうです。

この真田紐の販売を口実に全国各地の情報収集をしていたとも。
少し話が脱線しましたが、
この竹林院と信繁の間には、二男五女を設けている。
そして、長男の大助は、親父さんとともに、大坂の陣で戦死。

しかし、次男の大八が仙台の東北で命を長らえ、
子孫を残していた事実はあまり世にしられていない。

この大八を引き取り育てたのは、伊達政宗の家臣・片倉小十郎重綱(しげつな)
重綱の親父さんが、政宗の軍師として有名な景綱(かげつな)

大坂の陣の時は、親父さんは、病で出陣できず、
息子の重綱が政宗に従って出陣。
この重綱も親父さんの名声に
劣らず、この大坂の陣で敵将後藤基次を討ちとっている。
別名、『鬼の小十郎』と言われるほどの名将で、

その戦いぶりにほれ込んだ信繁が、
重綱に矢文を送って息子の大八を引き渡したといわれています。

しかし、この大八から数えて14代目の当主『真田徹氏』は、
『片倉小十郎は、1615年5月6日の夜に、
阿梅(竹林院と信繁の間に生まれた娘)を引き取っています。
道明寺の戦いで激戦を繰り広げた当事者が、その日の夜に敵方の娘を引き取るなど、
通常ではありえません。
当然のことながら伊達政宗も承知していたことでしょう』と語っておられます。
(直系子孫が明かす!真田幸村の真実という本から引用)

つまり、信繁と伊達政宗の間で密約が交わされていたと推測されるのです。
信繁が徳川家康の首を獲る代わりに、
息子や娘を無事に引き取って育てるという密約が結ばれていたのでは!?
伊達政宗は、まだ、
天下を取る夢をあきらめていたわけでは、ない証拠になるのです。

天下人

実際、信繁の突撃によって、
あと一歩のところまで家康を追い詰めたわけですから、
もし家康の首をあげていたら、
歴史はどう変わっていたことか。

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小十郎重綱が、密約どうり大八を立派に育てているからこそ、
信繁の子孫が生き残ることができたのです。

男気を感じますね。

徳川将軍家の敵をかくまうわけですから、
相当勇気がいる行為ですよね。
まさしく
【鬼の小十郎】の名にふさわしい生き方です。
自分も見習いたいです。

あ、少しどころかかなりそれましたが、
その直系子孫であられる、
14代目の当主『真田徹氏』は、

信繁が生前、大坂城に入城した時に、
信繁から幸村という名前で名乗っていた可能性があるという。

【え!実際の戦闘では赤備えではなかった?】

上記の14代目の当主『真田徹氏』が
信繁が大坂の使者が到着して、
九度山から大坂城に入城する際に、
赤備えでは
なかった可能性が高いと言われております。

その理由は、現在仙台真田家に伝わる信繁着用の鎧兜が黒だということ。
また、信繁入城の時に付きしたがっていた家来は、
100人を超えていたとつたわっているのですが、

赤の鎧兜を
100足以上も当時、用意できたか、
疑問ということらしいのです。

確かに、『真田徹氏』の言われることは、
最もなのですが、やはりドラマの中では、
赤備えは欠かせないアイテムなので

実際は、さておき、
やはり赤備えの鎧兜で家康本陣に勇猛果敢に攻めるシーンが

一番の見どころなので、
ここは、見て見ぬふりとしたいと個人的には、
思っているのですが、
さて、みなさんは、どう思いますか??

『日本一の兵』と評されるほど、強かった真田信繁こと幸村。
やはりポスターどうりのイメージですよね。
来年の大河を楽しみに、待ちたいと思います(笑)

こちらの記事でも真田信繁こと幸村を書いております↓
真田丸のキャスト表『真田幸村(信繁)』役堺 雅人